コロナ禍によって半年近く休止していたSHCの活動は、9月のおはようハイクより再開される。その初弾は、3回シリーズで行われる「大津谷川・栃山川を駿河湾まで歩こう」(Kdo企画)のリバーサイドウォークだ。このコースは、だいぶ以前の会報で池田金苗さんの絵本『かわ』(かこさとし 画・文)に寄せた一文の中で見たが、川を溯るのとは逆に、河口へと下ってみることにも様々な発見があることと思い、愉しみなことだ。
栃山川水系
歩くにあたり『やまびこ』276号(本年4月号)にSmaさんが寄せていた「栃山川って?」を読み返してみた。ここでは栃山川水系を構成する五河川の主に近代に入ってからの利水、治水のあらましが記されていて参考になった。この文に添付されていた栃山川水系の地図や、さらに詳しく地理院地図を眺めて感じることは、栃山川水系や瀬戸川水系の各河川が複雑に絡まり合って、志太平野に網の目のように張り巡らされていることだ。先人の努力によって「運河・水路が開削され、農地への灌漑や水運により志太平野に大きな恵みを与えてき」(「栃山川って?」)たのだ。
例えば、栃山川の前身である大津谷川は、ネスレ工場前で大井川に合流するのだが、その手前で栃山川として分流し、東光寺谷川と合流したり、逆に黒石川や木屋川を分流させたりしながら、大井川河口の北側で駿河湾に注がれる。こうした複雑な流れは、人工的な用水路として開かれてきた面が当然あるわけだが、大井川の下流域における流路変遷に関わる面もないだろうか。また、千葉山山域から南に流れ出している伊太、静居寺、大津、東光寺の各谷川が最終的には全て栃山川(木屋川)として纏まっていくことも興味深い。
大井川下流域の標高の変化(「地理院地図」より作成)
島田付近での大井川流路が、現在のように向谷水神山下から南進し、東海道本線鉄橋の辺りで牧ノ原台地にぶつかり東へと転じるようになったのは、天正の瀬替え(1590年)により牛尾山が開削されて以降のことであるが、慶長九年(1604年)の大井川氾濫により旧流路が復活し、島田宿が流され北側の山沿いに仮東海道が設けられたことは、この間の「慶長の仮東海道」(№277・279)の中で記してきた。この「慶長の仮東海道」探索最中に地理院地図を見るにつれ感じたことの一つに、島田地域の標高が他の大井川下流域市町に比べかなり高いことがある。島田地域では扇状地への出口に当たる神座北端が海抜約100m、栃山川起点で同45mであるのに対し、例えば瀬戸川では扇の要の堀之内矢崎橋が57m、焼津市境の保福島豊田橋が15m、葉梨川の谷では葉梨小北側が23m、朝比奈川との合流点辺り(下当間)で10m、朝比奈川では新東名IC近くの岡部町村良(むらら)で22m、岡部川ではだいぶ谷深く入った感のする道の駅「宇津ノ谷峠」で50m、朝比奈川合流点の若宮八幡宮下で18mとなる。
これは大井川の運ぶ土砂量の多さと共に、氾濫の度に狭い扇状地(白岩寺山下の大津谷川・伊太谷川合流点から初倉谷口の弁天山までは僅か2km)である島田地域へそれを堆積させていった様子が窺われる。また、高草山塊の南麓が万葉時代では深い入江地形となった低湿地であったことも想像できる。さらに標高の変化を見て気付くことは、島田の谷口から広い平野部へと出て以降、標高はきれいに等間隔に真東に変化し海岸線に平行した形となっている。志太平野が大井川による沖積平野である証である。谷口から解き放たれた大井川は、北の高草山塊と南の牧ノ原台地の間を自由に流れていた時代があったことが想像できる。それは地名からも推し量ることができる。高洲、大洲の「中洲」を示す地名。青島、前島、大島、祢宜島など「島」を示す地名。さらに、残存島嶼(※下流域の流路変遷によりかつて島であった部分がとり残され、流れから遠ざかったもの)の典型として、青島中西側に残る岩城山、本宮山などを挙げることができる(ここもかつてのおはようハイクで訪れた)。
それでは、大井川が白岩寺山を東に離れて志太平野に出ていた頃、実際どこをどう流れたのだろうか。静岡県誌によると、沖積平野が堺・栃山・木屋三川の川口付近で特に突出して、ちょうど大井河口が造っている凸出砂州とよく似ていることから考えると、これら三川の流路は、現河道以前の最も有力な河道であると述べる。実際地形図を見てみれば、大井川の現河口と和田浜付近の海岸線の突出形が似通っていることに気付く。浅井治平(明治24年4月旧金谷町生、文学博士)は『大井川とその周辺 ―交通路の変遷と渡渉制―』(1972・4・10参版)の中で、志太平野に出た後の大井川の三流路を示している。
大井川下流平野の等高線並びに微高地分布図
Ⅰ流路(旧流路)
鎌塚・権現原を削った大井川の刎ね返りは、道悦島から岸の北方の侵食崖を造り、栃山川と大井川の間に細島微高地を形成した。この微高地が栃山川に終る北側は、上青島の北の崖と相対して旧大井川の流路を示し、瀬戸の孤立した丘の二つ三つは大井川の分流点に当っている。北方追分、瀬戸新屋に流れるものは藤枝駅北方の前島をへて瀬戸川に流入しているように見える。孤立丘陵以東は紡錘形の青島微高地となり、藤枝駅の南方を東東北にのびている。その東にかなり明瞭な高柳微高地があって、青島微高地との間に黒石川源流の一枝が、一条の低地を造って界となっている。高柳微高地の東には、大住の北から小川をへて会下島(えげのじま)まで、自然堤防らしい微高地が、だいたい黒石川にそってつづいている。これを小川微高地と呼ぼう。
(中略)これを旧流路と仮定して、この等高線の形状から察すると、その堆積物は和田浜の北部石津付近が中心となるので、県誌の言う旧河口より北に偏し、実際の堆積物は半ば焼津沿岸と共に削り去られたと解すべきである。
もう一つここが大井川の旧流路であったろうという有力な証拠がある。(中略)駿河国絵図(一七〇二年)で見ると黒石川が兵太夫の西で栃山川と結びついて、立派に大井川の分流となっている。
元禄の頃でさえも栃山川と黒石川とが結びついていたほどであるから、そのずっと以前に大井川が島田から真東に流れていた有史以前には、当然黒石川が中心となって、大住から中側島と小川微高地間の低地を流れ、前にのべた五米の等高線を造るような堆積を行なったものと思われる。この付近に島のつく地名の多いのは、河流中の中州や自然堤防に自然に名付けたもので、もとの大井川は多くの中州をその流路の中に残したが、高柳微高地などもその一つで、自分の堆積した砂礫のためにその流路を妨げられ、他の流れ易い方向を求めて、栃山川を本流とするようになったものである。
こうして黒石川は徳川の初政頃から栃山川との縁がうすくなって、もとの河道もいつとはなしに埋って田畑や宅地となり、今は所々に池や貯水池を見る以外にその址を辿ることさえ困難な有様となった。
黒石川付近の元禄国絵図
Ⅱ流路(旧流路)
栃山川は最初は現在の木屋川の流路をとって東流したらしく、北方に蔵島微高地を堆積しながら、右岸に一色・田尻の微高地を形成し、後に南流して栃山川の流路に入り、右岸に堺川を挿む下小杉西方の微高地から、大島にかけての微高地を堆積した。その一部は静浜飛行場となったり、耕地となったりして、元の地形はすっかり変化させられた。やや上流部の上新田・中島以西の上小杉・土瑞微高地は最も著しい自然堤防で、広範囲に茶畑に広がっている。これはさらに西にのびて、善左衛門の茶畑を中心とする大洲微高地となっている。この一連の微高地は、かって長い間駿遠の国境だったところで、向榛原と旧志太郡との境界をなし、明治一二年までは、この以西は遠江国榛原郡に属していたのである。
以上の事情から考えると、わが国の歴史時代の初期には、大井川の主流は現在の栃山川流路、すなわちⅡ流路を流れていたものらしく、その堆積は西部は白金微高地まで及んだものと思われる。
Ⅲ流路(現流路)
栃山川を主流として大井川が流れていた頃に、すでにその一分流は現在のⅢ流路を流れており、洪水の甚しい時には、源助南方の八番付近から田中川や地蔵守川の流路をへて海に入り、ある時は細島と大洲との間を、ほぼ今日の芝地川の流路を取って栃山川に注いだことも、空中写真の示唆する所である。
大井川の記録で最古のものと考えられるのは、日本書紀仁徳天皇六二年(三七四)の条にあり、(中略)Ⅲ流路も相当古くからあったことがわかる。
今の谷口橋南詰の西にある弁天山に祀られる神社で、この付近で流木の大樹を発見し、その下流の船木で造船したと解しているのであるが、果してこの辺で造られた外洋を航海し得る船が、当時の大井川を下って、無事に海に浮び、難波津まで到着し得たか否か。実際問題としては紀伊国屋文左衛門の和田港などと考え合せると、なお検討を要する問題である。
前に挙げた飛田堤防の築造が宝亀一〇年(七七九)の大洪水の結果とすればこれによって大井川のⅢ流路は南方に圧迫されて強力となり、一部は谷口原の東縁を削って湯日川の流路に注ぎ、大幡辺から横須賀街道にそって大井川から分れた川と合流して、能満寺丘陵の東南崖を削って西流し、坂口谷川の谷をへて細江付近の海に注いだ時代もあったようである。
現在、大井川用水路として活用されている栃山川水系が、大井川の本流となっていた時代があったのだ。今回のリバーサイドウォークでは、用水路として営々と整えられてきた歴史と共に、志太平野の中を遮るものなく高草山の南麓まで幾筋もの流れとなって海に繋がる大井川のかつての姿を想像してみるのも愉しい。また、こうした経緯によって、この志太平野には地下水(伏流水)が豊富に流れていることも理解できる。
さて、この大井川下流域での流路変遷こそが、古代からの東海道ルート変遷の一因となっているわけで、つまりは〝島田〟という地域がどうやって造られてきたかという問題なのだろうと思う。
(2020年9月記)