山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

4/28山伏周回

2024-05-13 09:58:53 | 山行

大谷崩れP(7:14)…蓬沢林道ゲート(7:17)…鳩胸尾根登り口(7:35)…1582標高点(8:36)…稜線(10:01〜11)…山伏(11:33〜12:05)…蓬峠(13:11〜20)…蓬沢林道終点(14:20〜25)…大谷崩れP(15:15) 距離:11.77km 累積標高:上り・下り1108m

メンバー:5名

会の若手のAK君に誘われ、鳩胸尾根から安倍奥の山伏に登った。快晴の天気に加えて、久しぶりにワクワクドクドクの充実した山行だった。鳩胸尾根は名前のとおりタフなルートだったが、ヤブっぽい箇所も少なく比較的歩きやすい尾根だった。蓬峠から蓬沢林道へのトラバースルートは踏み跡も薄く、15年前に清水のAH氏と歩いたことがあったが、ルートの状態はだいぶ変わっているようだった。終止引っ張ってくれたAK君、ON君には感謝。

苔むして良い雰囲気の鳩胸尾根

鳩胸尾根から大谷崩れを望む

山伏山頂に到着

南アルプス南部を望む

蓬峠からザレた斜面をトラバース

蓬沢の堰堤群


大札山ーアカヤシオ

2024-05-10 15:11:12 | 山行

2024.4.21 大札山のアカヤシオ

 会の定例山行で大札山に出かけた。大札山でアカヤシオを観るのは、2017年にRyoと来て以来だから実に7年ぶりとなる。大井川畔から立ち上がる大札山は名前のとおりの大きな山体で、麓の元藤川から上るとそれが良く分かる。

 肝心のアカヤシオの花は、当たり年の部類だろうか。南尾根は満開の様子で、北尾根では既に落花したものもあった。ピンクの色が以前と比べて薄くなったような気がしたが、どうなのだろう。それにしても、このシーズン真っ盛りで自分たち以外誰も居ない山頂というのは初めてだった。雨が予想された天候と共に、3年前からの赤石林道通行止めの影響が大きいことだろう。せめて肩の駐車場まで早く開通して欲しいものだ。

 昨日の新聞には5日から行方不明の男性(75歳)が、大札山で遭難死亡されたことが報じられていた。特に歳をとると単独で行くこと、届けを出さないことのリスクを改めて感じた。


深南部の玄関口――大札山

2024-05-10 14:15:29 | エッセイ

山犬段から望む大札山・秋

 島田から大井川を北上すると、最初に目に付くのは八高山、さらに地名辺りまで行くと左前方に麓からどっしりと立ち上がった大札山が見えてくる。大井川中流域の山では人気が高く、特にアカヤシオやシロヤシオの咲く春や、紅葉の季節には賑わいを見せる。南赤石林道が大札山の肩まで舗装され、駐車場から僅か30分程度で山頂に立てる気軽さも人気の理由だろうが、さて麓から登るとなると標高差は1140メートルとなかなか登り出があり、この山の大きさを実感できる。

 私が最初に麓の藤川から登ったのは2000年10月、中学生になった長男と一緒だった。大札山から山犬段の小屋で一泊し、沢口山まで縦走して寸又峡へ下った。小学生の頃はよく山に付いてきた息子だったが、中学ともなると普段の口数も少なくなり、この時は久し振りの同行だった。駿河徳山駅を9時過ぎに歩き始め山犬段の小屋に着いたのは16時半を回っていた。7時間余の間、二人きりでいったい何の会話を交わしたのか今となっては思い出せないが、子供の頃のものではなく私の山靴を履いて先行する息子の姿を少し嬉しく感じたりした。夕方になると天野夫妻と油井さんが車で上がってきて、賑やかになった。酒も程よく入り、息子も油井さんより〝大人〟の講義など受けながら楽しく過ごしたのだった。

 その前年秋、県スポーツ祭登山大会が山犬段周辺で行われ、SHCも大川連の一員として実行団体に加わった。メインコースとなった房小山は長く〝深南部の秘峰〟などと呼ばれていたようだが、この大会によって多くの人たちが訪れ、その魅力が知られるようになった。私自身もこれに前後して大井川流域の山々、特に山犬段周辺とそこからさらに続く深南部の山々に対して、憧憬を深めていった。私が大井川流域への想いを醸成させた『大井川―その風土と文化―』(野本寛一著)の中の信濃(伊那〜諏訪)への道が、具体的な山歩きの姿として仄かに見え始めた頃だった。

 大札山、山犬段を訪れた人なら、南赤石林道入口の上長尾に島田のそれと同名のもう一つの千葉山智満寺があることはご存知だろう。以前、島田の千葉山において行われた民俗学研究家・八木洋行氏の講演で「南北朝時代、伊那大河原(現大鹿村)に拠点を持った宗良親王を旗頭とする南朝勢力のルート(大札山、蕎麦粒山から榛原郡界尾根を北上し県界の白倉山から伊那へ至る)と関連があるのではないか」という指摘を拝聴した。南朝伝承は特に木地師集団の足跡と深く関係があると言われ、また、中央構造線に沿って伝播されているとも言われる。その視点からこの山域(深南部)の地図を眺めると、大札山、黒法師岳、丸盆山、不動岳、六呂場山と、その匂いを感じさせる山名が並んでいる。木地師をはじめとする山の道を往来する人々の足跡と、私の歩こうとする山々が繋がってくるのだ。大札山を越えて深南部へ、伊那へ、そして諏訪へ。大札山は私の山歩きの玄関口であり、また歴史的想像力の入口でもあった。

(2009年4月)


城ヶ尾峠の怪

2024-05-06 13:43:43 | エッセイ

 2006年9月末、冬に予定されていた北丹沢・菰釣山の下見にAN夫妻と出かけた。菰釣山から稜線を東進し、城ヶ尾峠から車を留めた道の駅道志に向かって下ろうとしていた。城ヶ尾峠は、山中湖北東の大棚ノ頭から菰釣山、加入道山と続く西丹沢の県界稜線縦走路を、大又沢から道志の谷に向けて南北に道が越えている。甲斐・武田の小田原攻めの際に使われたという伝承もあって、峠を南に下った平坦地には「信玄平」というそれらしい地名も残っている。この道は、かつては東海自然歩道となっていたが、大滝峠から信玄平のトラバース道の崩壊が激しく、廃道になって久しい(現在の東海自然歩道は畦ヶ丸を通る尾根ルートとなっている)。また、信玄平から尾根をさらに下った地蔵平には最盛期には二百戸を越える林業従事者の集落があって、小学校分校などもあったようだが、昭和三十年代に廃村となっている。尾根の東には「バケモノ沢」と妖しげな名の付く沢も入っている。

 城ヶ尾峠を下り始めて直ぐに、熊除けの鈴だろうか「チリンチリン」と音が聞こえてきた。峠では先に下りた人も後から来た人にも会わなかったし、縦走路を歩いている最中、鈴の音を聞いたことはなかった。信玄平から峠を越える人がいるのだろうか? 城ヶ尾峠手前の小ピークから分かれる小さな尾根を巻きながら左に大きく曲がると、数十メートル先に佇む若い女性の姿があった。鈴の音は止まっていた。齢は三十前後だろうか……、だがその格好にはどうも違和感が持たれた。まだ「山ガール」ブームには少し早い頃だったが、それにしてもあまりに昭和的な雰囲気とでもいうのだろうか、9月末の千メートルをやや超える程度の山では、歩けばまだ汗をかくにもかかわらず、全く場違いなロングコートを羽織っている。背負ったザックは、だいぶ昔に小中学生のキャンプに使ったような、ポケットが両サイドに付いた横幅のあるリュックサックだった。近付いて来る私たちの方に細面の顔を向け、少し笑みを浮かべているように見えたが、どうも見つめているのはその先のようにも思えた。午後のこんな時間になっての登りに進退を躊躇しているのだろうか。

 谷側に立つ女性に「こんにちは」と声を掛けたが、彼女からは何の反応もなく、同じ表情でただ立ちすくんでいる。「変わった人もいるから」との思いで横を通り過ぎ、右にトラバースしながら暫く下ると、何と登山道が数メートル崩落しているではないか。仕方なく斜面を少し高巻き越えると、その先には「この先、登山道崩落」の標識と共に新しい道が斜面の上に続いていた。新道の上がる先を追うとそこは先程の女性が立っていた場所で、件の女性はまだそこに立っていて、こちらをじっと見下ろしているではないか。おそらく、あの場所にも同じ「この先、登山道崩落」の標識があったはずだ。女性は標識と新しい下り口を、私たちの視界から覆うようにして、あの場に立っていたのだろうか……? 三人共にうそら寒いものを感じながら、無言でキャンプ場へと急ぎ下った。鈴の音が追って来ないことを、ひたすら願いながら……。

 城ヶ尾峠の女性が何者だったのかは今も分からない。ただ、山ではそういうこと(もの)があるのだということを、初めて体験したのだった。もう一つの体験は、昨年(2017年)5月連休に何度目かの「茶臼岳・上河内岳」でのこと。いつもの横窪沢ベースで、夜中に小用を済ませ、ついでに煙草を吹かしていた。何気なく南側の空を眺めていると、向い側の鳥小屋尾根(茶臼岳から畑薙山に続く尾根)の支尾根から、ちょうどヘッドランプの灯のような光が、ひとつ、またひとつと現れ、チラチラと揺れながら列となって横窪峠に向かって下りていくのだ。最初は「こんな時間に登山者?」とちらと思ったが、灯は峠まで来てこちらに曲がったかと思うと消え、小屋に辿り着くものはなかった。横窪峠には小さな遭難碑が建っているのは承知していた(昭和43年、南アルプス全山縦走中、この場所で亡くなった26才の若者の慰霊碑)。ただ、この時は怖いという気持ちではなく、不思議なものを見たという何か満足感のようなものを覚えていた。

 こうした山での不可思議な体験、怪異な現象(心象?)の話は、様々な場所で昔から多く語られてきた。

「日本の山には何かがいる。生物なのか非生物なのか、個体なのか気体なのか、見えるのか見えないのか。まったくもってはっきりとはしないが、何かがいる。その何かは、古今東西さまざまな形で現れ、老若男女を脅かす。誰もが存在を認めているが、それが何かは誰にも分からない。敢えてその名を問われれば、山怪と答えるしかないのである。」(田中康弘著「山怪」山と渓谷社より)

 私は決してスピリチュアルなものへの感受性が強い方ではなく、むしろそうした感覚に依拠する思考には否定的な気持ちをずっと持ってきた。しかし、やはり〝山には何かがいる〟のである。そして、ひょっとすると私たちが山に向かうのは、単に景観といったような視覚的な事柄(実在するもの、論理的に説明できるもの)を味わうためだけでなく、現在の私たちから失われた〝何か〟を取り戻したいがためではないかとさえ思うのだ。考えてみれば視覚こそが全ての世界となったのは、ほんの半世紀前からに過ぎないのであって、そうした視覚絶対主義=近代の立場から離れれば、実はもっと多様な混沌とした世界が拡がっている(いた)のかも知れない。


2万5千分1地形図難読図名

2024-05-05 14:12:22 | エッセイ

 国土地理院の発行する2万5千分1地形図には、その図郭に掲載されている範囲を象徴する図名が付けられています。地理院地図(電子国土Web)では、[設定]→[グリッド表示]→[図郭]をONにすることで、同様の図名を表示することができます(2万5千分1地形図名はズーム11以上、ズーム10、9は5万分1地形図名、ズーム8以下は20万分1地勢図名を表示)。静岡県域が含まれる2万5千分1地形図名を東・北から挙げると以下のとおりです。

熱海・網代・伊東・川名・天城山・稲取・駿河小山・御殿場・裾野・三島・韮山・修善寺・湯ケ島・湯ケ野・下田・神子元島・須走・印野・愛鷹山・沼津・大瀬崎・達磨山・土肥・仁科・伊豆松崎・石廊崎・富士山・天母山・入山瀬・吉原・精進・人穴・上井手・富士宮・蒲原・興津・篠井山・和田島・清水・静岡東部・梅ヶ島・湯の森・駿河落合・牛妻・静岡西部・焼津・住吉・間ノ岳・塩見岳・赤石岳・上河内岳・畑薙湖・井川・千頭・石上・伊久美・向谷・島田・相良・御前崎・光岳・池口岳・寸又峡温泉・蕎麦粒山・高郷・家山・八高山・掛川・下平川・千浜・伊那和田・水窪湖・門桁・気田・犬居・森・山梨・袋井・三河大谷・佐久間・中部・秋葉山・二俣・笠井・磐田・掛塚・三河本郷・熊・伊平・気賀・浜松・三河富岡・三ヶ日・新居町・豊橋・二川

 静岡県人でなおかつ山に行く皆さんにとっては読めない図名は無いと思いますが、強いて県外の方々や山に馴染みの無い方々にとって難読と思われるものを挙げれば、神子元島(みこもとしま)、須走(すばしり)、愛鷹山(あしたかやま)、天母山(あんもやま)、人穴(ひとあな)、間ノ岳(あいのだけ)、向谷(むくや)、光岳(てかりだけ)、寸又峡温泉(すまたきょうおんせん)、八高山(はっこうさん)、千浜(ちはま)、水窪湖(みさくぼこ)、門桁(かどけた)、気田(けた)、といったところでしょうか。

 ところで、国土地理院は新しく調製した2万5千分1地形図名を発表しています。5月1日新刊分を見ると難読のオンパレードで33面全てに読みが振られていました。一部を挙げますと

船泊(ふなどまり)、礼文岳(れぶんだけ)、香深(かふか)、焼尻島(やぎしりとう)、神威脇(かむいわき)、老津(おいつ)、市鹿野(いちかの)、二木(ふたつぎ)、阿波由岐(あわゆき)、甲浦(かんのうら)、湯桶丸(ゆとうまる)、土佐魚梁瀬(とさやなせ)、馬路(うまじ)、入木(いるぎ)、美良布(びらふ)、西之表(にしのおもて)、国上(くにがみ)、口永良部島(くちのえらぶじま)

 皆さんは幾つ読むことができましたか、またそれが何処の地域なのか判りますか? 香深(礼文島南)や阿波由岐(徳島県由岐)は、音だけを聞くととても地名とは思えません。アイヌ語由来の地名の残る北海道、また奄美群島から八重山列島にかけての南西諸島域には独特な読みの難読地名が多いようです。焼尻島は留萌の北側の島です。北海道西面の日本海側には、利尻(りしり)、焼尻(やぎしり)、奥尻(おくしり)と尻の字が付いた島が続いています。アイヌ語の[sir]音は地名で用いられる場合は「陸地(大地)」「山」といった意味のことが多いそうです。知床半島(当てている漢字には意味はありません)が「大地の果て」となるのは岬という地形的にも頷けます。山名では幌尻岳、利尻山、尻別岳などがあります。ところで西之表(国上も)は種子島北部ですが、もっと南下し八重山列島までいくと西表島(いりおもてじま)と別の読み方になるのは興味ぶかいところです。