2016年11月27日(日)

(今日のマップ)
JR九州ウォーキング木葉駅コースに参加。
木葉駅の所在地熊本県玉名郡玉東町は1955(昭和30)年当時の木葉村、山北村が合併した町。(合併時は玉東村)
JR鹿児島本線を熊本駅から北上すると、4つ目の駅が植木駅、それから田原坂駅、木葉駅、肥後伊倉駅、玉名駅(旧高瀬駅)と続く。
明治10年2月21日、政府軍熊本鎮台が守る熊本城へ薩摩軍の侵入で西南戦争の熊本城攻防が始まる。激しい戦いが始まった夜、西郷小兵衛(西郷隆盛末弟)らの提案で、一部部隊が数隊に分かれて北上することが決まる。
2月22日、小倉から南下してきた乃木希典率いる政府軍の支援部隊が木葉に集合。夜7時、北上したてきた薩摩軍と政府軍の両軍は戦闘を開始。この戦いで政府軍の連帯旗が奪われる。その後も政府軍、薩摩軍とも応援部隊が続々と駆け付け、瀬高(現玉名市)と木葉(現玉東町)間で一進一退の激しい戦いが続く。乃木希典は負傷し、西郷小兵衛は2月27日戦死する。(西郷小兵衛戦死地は玉名駅ウォーキングで訪れる。)
木葉駅で受付の後、雨の中傘をさして歩いて数分で訪れたのは「高月官軍墓地」。西南戦争の官軍墓地の中でも最大のもので、田原坂・吉次峠・横平山の戦闘で戦死した官軍兵士約980名が葬ってある。23日の木葉の戦いで死亡した政府軍吉松少佐を称える詩碑もある。

(高月官軍墓地)

(吉松少佐を称える詩碑)
小さい路地を通って、大きな道へ出て、玉東町役場を経て、「正念寺」へ。日本の赤十字社は西南戦争を契機に発足した。正念寺は3月8日から4月24日まで、負傷した兵士を治療した官軍の大包帯所(病院)跡で、赤十字社の前身・博愛社発祥の地碑が建っている。

(路地を歩く)

(路地で)

(正念寺)

(正念寺)
戦場でおびただしい数の負傷兵が手当もされずに放置されているのを見た佐野常民は征討総督有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社設立の趣意書を差し出し、設立の認可を受けた。(熊本市中央区水前寺に移築されている認可の儀式が行われた「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」は熊本地震で崩壊。)博愛社は1887(明治20)年に日本赤十字社と改称した。
正念寺の山門には、36発の小銃の弾痕が残っている。

(正念寺山門弾痕)
正念寺を後に、上木葉官軍本営跡、有栖川宮督戦の地へと歩く。上木葉官軍本営跡は田原坂占領の頃まで官軍の本営として使用され、本営が移った後も陸軍中将・山県有朋が本営を設け、作戦指導や戦後処理などをおこなった。有栖川宮督戦の地は本営跡直ぐ近くの見晴らしのいい所にあり、征討総督有栖川宮熾仁親王が田原坂攻略戦の戦地を見て廻られた地の記念碑が建っている。

(道沿いで)

(上木葉官軍本営跡)

(上木葉官軍本営跡)

(有栖川宮督戦の地)

(有栖川宮督戦の地)

(有栖川宮督戦の地)
地元以外の人が訪れて見晴らしても戦地が分かるような絵図の案内板があればもっといいと思う。
下って狭い路地をしばらく歩いて、「木の葉猿窯元」へ。木の葉猿は、土製の手ひねりで素焼きの素朴さと、とぼけた味の玩具。

(路地を歩く)

(路地を歩く)

(木の葉猿窯元)

(木の葉猿窯元)

(木の葉猿窯元)
正念寺とともに官軍の大包帯所(病院)がおかれた徳成寺を経て、少し急な坂を上って宇蘇浦官軍墓地へ。墓地には官軍の将兵および抜刀隊として参加した警視局巡査たち398名の戦死者を葬っている。

(徳成寺)

(宇蘇浦官軍墓地)
政府軍は、刀や剣などを使った薩軍の白刃攻撃に悩まされる。そこで政府軍の後方支援に当たっていた警視隊の中から選抜した「抜刀隊」編成し、薩軍と戦った。抜刀隊の墓と将兵の墓は違っている。抜刀隊の墓の上部には丸みがある。

(抜刀隊の墓)
薩軍に包囲され、通信手段を失った熊本城籠城部隊は、高瀬へと進出してきた政府軍に本部に密使を派遣する。2月26日、谷村計介伍長は百姓姿に変装、夜中に城を出る。2回ほど薩軍に捕らわれるがいずれも脱走。3月2日に本部に到達。そこでも薩軍と間違われて捕らわれの身になったりする。嫌疑が晴れて状況報告の任を全うする。その2日後田原坂の戦いで戦死する。谷村計介伍長の墓もここにある。

(谷村計介伍長の墓)
急な坂は、雨が降っているので滑りやすい。用心して下る。少し歩いて、宇都宮神社の階段を上ると落葉と紅葉の囲まれたこじんまりとした社殿が。今日は雨で参加者が少なくて良かった。もう誰も来ないで。一人占めしていたい。そんな感じに浸る。

(宇都宮神社)

(宇都宮神社)
有名な社寺の、紅葉を見に行くのか人を見に行くのかわからないところへ行くよりは、ここがいい。
カメラは電池切れの警告になってだいぶん経つ。ゆっくり写真は撮れない。そういえば、昨年もここで写真を撮ったが、人が多くて困ったことを思い出す。
階段を下りてしばらく歩いて、大きな通りから少だけ入ったところに「乃木希典奮戦の地」がある。昨年は行っていない。直ぐ横に神社があった。熊本地震で階段が壊れて立ち入り禁止になっていた。

(雨は降り続く)

(乃木希典奮戦の地)

(乃木希典奮戦の地横の神社)
「ふれあいの丘交流センター」まで2km程歩く。最後は坂を上る。お祭りがあっているが、雨でお客さんは少ない。サービスで杵でついたつきたてのお餅をいただく。お餅を噛むとお米そのものの甘い味が口の中に拡がる。顔には笑みが。噛む、笑む。噛む、笑む。美味しい。こんなにお餅が美味しいとは、忘れていた味だ。一気に満足感が。昨年はだご汁の中にお餅を入れて食べたので、お持ちの味の感激は無かった。

(ふれあいの丘交流センター)

(サービスのお餅と300円のだご汁)

(農産物等も売られていたがお客は少ない)
下って、相変わらず傘をさして1km程歩いて、ゴール木葉駅へ。すぐに来る列車を待ちにホームへ。

(木葉の山並み)

(木葉駅が見えてきた)

(木葉駅)
西南戦争の瀬高・木葉の戦いは、西郷小兵衛の戦死もあり、戦局が政府軍有利に展開しだす。3月4日政府軍は田原坂に総攻撃を開始。激しい戦闘を繰り返す。政府軍が用いた弾薬は1日平均で約32万発。3月20日早朝、戦いの膠着を破るべく総攻撃をかけ、不意を突かれた薩軍の防衛線を崩し、田原坂を突破した。熊本城への攻防を戦い続けていた薩軍は、八代に上陸した政府軍に背後も突かれ、4月には熊本からの撤退を余儀なくされる。
田原坂は曲がりくねった急な坂から一の坂、二の坂、三の坂と上るにしたがい、ゆるやかな坂になり、今は田原坂公園になっている頂上に達する。3年程前までは、田原坂を上るJR九州ウォーキングが開催されていたが、無くなって残念に思っている人は多い。
木葉駅を出た列車は、左手に田原坂公園を見ながら進み田原坂駅に着く。そこから4つ目上熊本駅を過ぎ熊本城も見えてくると、やがて熊本駅に着く。今年(今日?)のJR九州ウォーキングを終える。

(今日のマップ)
JR九州ウォーキング木葉駅コースに参加。
木葉駅の所在地熊本県玉名郡玉東町は1955(昭和30)年当時の木葉村、山北村が合併した町。(合併時は玉東村)
JR鹿児島本線を熊本駅から北上すると、4つ目の駅が植木駅、それから田原坂駅、木葉駅、肥後伊倉駅、玉名駅(旧高瀬駅)と続く。
明治10年2月21日、政府軍熊本鎮台が守る熊本城へ薩摩軍の侵入で西南戦争の熊本城攻防が始まる。激しい戦いが始まった夜、西郷小兵衛(西郷隆盛末弟)らの提案で、一部部隊が数隊に分かれて北上することが決まる。
2月22日、小倉から南下してきた乃木希典率いる政府軍の支援部隊が木葉に集合。夜7時、北上したてきた薩摩軍と政府軍の両軍は戦闘を開始。この戦いで政府軍の連帯旗が奪われる。その後も政府軍、薩摩軍とも応援部隊が続々と駆け付け、瀬高(現玉名市)と木葉(現玉東町)間で一進一退の激しい戦いが続く。乃木希典は負傷し、西郷小兵衛は2月27日戦死する。(西郷小兵衛戦死地は玉名駅ウォーキングで訪れる。)
木葉駅で受付の後、雨の中傘をさして歩いて数分で訪れたのは「高月官軍墓地」。西南戦争の官軍墓地の中でも最大のもので、田原坂・吉次峠・横平山の戦闘で戦死した官軍兵士約980名が葬ってある。23日の木葉の戦いで死亡した政府軍吉松少佐を称える詩碑もある。

(高月官軍墓地)

(吉松少佐を称える詩碑)
小さい路地を通って、大きな道へ出て、玉東町役場を経て、「正念寺」へ。日本の赤十字社は西南戦争を契機に発足した。正念寺は3月8日から4月24日まで、負傷した兵士を治療した官軍の大包帯所(病院)跡で、赤十字社の前身・博愛社発祥の地碑が建っている。

(路地を歩く)

(路地で)

(正念寺)

(正念寺)
戦場でおびただしい数の負傷兵が手当もされずに放置されているのを見た佐野常民は征討総督有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社設立の趣意書を差し出し、設立の認可を受けた。(熊本市中央区水前寺に移築されている認可の儀式が行われた「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」は熊本地震で崩壊。)博愛社は1887(明治20)年に日本赤十字社と改称した。
正念寺の山門には、36発の小銃の弾痕が残っている。

(正念寺山門弾痕)
正念寺を後に、上木葉官軍本営跡、有栖川宮督戦の地へと歩く。上木葉官軍本営跡は田原坂占領の頃まで官軍の本営として使用され、本営が移った後も陸軍中将・山県有朋が本営を設け、作戦指導や戦後処理などをおこなった。有栖川宮督戦の地は本営跡直ぐ近くの見晴らしのいい所にあり、征討総督有栖川宮熾仁親王が田原坂攻略戦の戦地を見て廻られた地の記念碑が建っている。

(道沿いで)

(上木葉官軍本営跡)

(上木葉官軍本営跡)

(有栖川宮督戦の地)

(有栖川宮督戦の地)

(有栖川宮督戦の地)
地元以外の人が訪れて見晴らしても戦地が分かるような絵図の案内板があればもっといいと思う。
下って狭い路地をしばらく歩いて、「木の葉猿窯元」へ。木の葉猿は、土製の手ひねりで素焼きの素朴さと、とぼけた味の玩具。

(路地を歩く)

(路地を歩く)

(木の葉猿窯元)

(木の葉猿窯元)

(木の葉猿窯元)
正念寺とともに官軍の大包帯所(病院)がおかれた徳成寺を経て、少し急な坂を上って宇蘇浦官軍墓地へ。墓地には官軍の将兵および抜刀隊として参加した警視局巡査たち398名の戦死者を葬っている。

(徳成寺)

(宇蘇浦官軍墓地)
政府軍は、刀や剣などを使った薩軍の白刃攻撃に悩まされる。そこで政府軍の後方支援に当たっていた警視隊の中から選抜した「抜刀隊」編成し、薩軍と戦った。抜刀隊の墓と将兵の墓は違っている。抜刀隊の墓の上部には丸みがある。

(抜刀隊の墓)
薩軍に包囲され、通信手段を失った熊本城籠城部隊は、高瀬へと進出してきた政府軍に本部に密使を派遣する。2月26日、谷村計介伍長は百姓姿に変装、夜中に城を出る。2回ほど薩軍に捕らわれるがいずれも脱走。3月2日に本部に到達。そこでも薩軍と間違われて捕らわれの身になったりする。嫌疑が晴れて状況報告の任を全うする。その2日後田原坂の戦いで戦死する。谷村計介伍長の墓もここにある。

(谷村計介伍長の墓)
急な坂は、雨が降っているので滑りやすい。用心して下る。少し歩いて、宇都宮神社の階段を上ると落葉と紅葉の囲まれたこじんまりとした社殿が。今日は雨で参加者が少なくて良かった。もう誰も来ないで。一人占めしていたい。そんな感じに浸る。

(宇都宮神社)

(宇都宮神社)
有名な社寺の、紅葉を見に行くのか人を見に行くのかわからないところへ行くよりは、ここがいい。
カメラは電池切れの警告になってだいぶん経つ。ゆっくり写真は撮れない。そういえば、昨年もここで写真を撮ったが、人が多くて困ったことを思い出す。
階段を下りてしばらく歩いて、大きな通りから少だけ入ったところに「乃木希典奮戦の地」がある。昨年は行っていない。直ぐ横に神社があった。熊本地震で階段が壊れて立ち入り禁止になっていた。

(雨は降り続く)

(乃木希典奮戦の地)

(乃木希典奮戦の地横の神社)
「ふれあいの丘交流センター」まで2km程歩く。最後は坂を上る。お祭りがあっているが、雨でお客さんは少ない。サービスで杵でついたつきたてのお餅をいただく。お餅を噛むとお米そのものの甘い味が口の中に拡がる。顔には笑みが。噛む、笑む。噛む、笑む。美味しい。こんなにお餅が美味しいとは、忘れていた味だ。一気に満足感が。昨年はだご汁の中にお餅を入れて食べたので、お持ちの味の感激は無かった。

(ふれあいの丘交流センター)

(サービスのお餅と300円のだご汁)

(農産物等も売られていたがお客は少ない)
下って、相変わらず傘をさして1km程歩いて、ゴール木葉駅へ。すぐに来る列車を待ちにホームへ。

(木葉の山並み)

(木葉駅が見えてきた)

(木葉駅)
西南戦争の瀬高・木葉の戦いは、西郷小兵衛の戦死もあり、戦局が政府軍有利に展開しだす。3月4日政府軍は田原坂に総攻撃を開始。激しい戦闘を繰り返す。政府軍が用いた弾薬は1日平均で約32万発。3月20日早朝、戦いの膠着を破るべく総攻撃をかけ、不意を突かれた薩軍の防衛線を崩し、田原坂を突破した。熊本城への攻防を戦い続けていた薩軍は、八代に上陸した政府軍に背後も突かれ、4月には熊本からの撤退を余儀なくされる。
田原坂は曲がりくねった急な坂から一の坂、二の坂、三の坂と上るにしたがい、ゆるやかな坂になり、今は田原坂公園になっている頂上に達する。3年程前までは、田原坂を上るJR九州ウォーキングが開催されていたが、無くなって残念に思っている人は多い。
木葉駅を出た列車は、左手に田原坂公園を見ながら進み田原坂駅に着く。そこから4つ目上熊本駅を過ぎ熊本城も見えてくると、やがて熊本駅に着く。今年(今日?)のJR九州ウォーキングを終える。
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