2017年4月29日(土)
JR九州ウォーキング二日市駅コースに参加。

(今日のマップ)
今日のコースは武蔵寺(ぶぞうじ)の藤鑑賞がメインだが、以前参加した時は天拝山(てんぱいざん)駅スタートだった。
二日市駅を9時10分頃スタート。鹿児島本線の踏切を渡って、「筑紫野市歴史博物館」へ。春の企画展「武蔵寺と二日市温泉」が開催中。

(クリーンデー)

(子育て支援自販機は初めて見た)

(二日市駅を出た電車)

(筑紫野市歴史博物館)
二日市温泉の名は昭和25年からで、それ以前は武蔵(むさし)温泉、古代には次田温泉(すいたのゆ)などとも呼ばれていた、ことを知る。へぇへぇと思いながら観てまわる。
大正4(1915)年の武蔵温泉案内パンフレットは鉄道の時刻表もついて、鉄道と温泉はセットで宣伝されている。武蔵温泉、武蔵寺付近には遊園地もあったようだ。

(武蔵温泉パンフレット)

(武蔵温泉パンフレット)
常設展で、筑紫野市一帯の歴史を学んで歴史博物館を後にし、二日市温泉へ。「御前湯(ごぜんゆ)」は筑紫野市が運営する温泉施設。黒田藩が管理していた時から名が引き継がれている。入浴料250円が100円引きで入れるのだが、入らずに進む。

(道沿いで)

(二日市温泉)

(御前湯)
直ぐ傍に、万葉集に収められている、大友旅人が、次田(すきた)の温泉に宿りて、鶴の喧くを聞きて作る歌一首、「湯の原に 鳴く芦田鶴は わがごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く」の碑がある。
大友旅人は、728年頃、妻の大伴郎女を伴って、大宰府の長官・大宰帥(だざいのそち)として赴任する。60歳過ぎていた。間もなく妻を亡くし、その想いを歌った。

(大友旅人の歌碑)
温泉街を歩いていると爆竹が鳴った。天拝公園でのお祭りが始まったようだ。

(道沿いで)
歌碑があった。
「人ならぬ 草木にさへも わするなよ 忘れしとのみ いはれけるかな」
三条西季知は尊皇攘夷派公家の一人。

(三条西季知歌碑)
高取焼に寄る途中にも碑がある。「鴬や 破るる夢も 惜しからん 温泉に通ふ 下駄と雲雀の 声高し」、江戸末期黒田藩家老も勤めた立花秋水の作。

(立花秋水歌碑)
高取焼で折り返し、藤まつり会場の天拝公園へ。前を行く大勢の人たちの後について行ったが、後からマップを見ると、道が違っていたようだ。

(高取焼入口)

(高取焼入口)

(高取焼)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)
天拝公園で少しのんびりして、武蔵寺の方へ向かおうとしたとき、天拝山に上って降りられてこられたKさんご夫妻と会った。「400段の階段を上ってきました。」と聞き、最近疲れ気味ではあるが、やっぱし上ろう。

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝山案内板さあ上ろう)
途中に、石楠花谷があって、写真を撮って、上り進む。

(道沿いで)

(道沿いで)

(石楠花谷)

(石楠花谷)

(石楠花谷)

(石楠花谷)
ウォーキングのコースではないのだけど、上ってといる参加者も多い、下ってくるお知り合いの方々ともお会いする。みんな上るんだなあ、と思いつつ上る。

(山上り道)

(山上り道)

(山上り道)

(山上り道)

(途中にある荒穂神社)

(荒穂神社からの眺め)
お祭りや武蔵寺の藤鑑賞に来た人たちも上っている。小さい子も上っている、もう下ってきている子もいる。3、4歳位と思える子どもたちだ。上るにつれ身体もしんどくなってくるが、すまして上ったり、下りたりしている子らに会うと癒され、口元もほころぶ。子らに「頑張るなぁ」など声をかけたりしながら上る。
8合目あたりから階段を上る。へばっている大人たちも増えてくる。

(階段を上りはじめる)
「さあ今から大変」と書いたある100段目の案内板がある。きつそうに上っている人に「まだ四分の一ですよ。」と声をかける。「え、まだ・・・。」
不思議なもので、他の人に声をかけるとこちらが元気になる。

(100段目)
階段200段目「まだ・まだ」

(200段目)
階段300段目「あと一息」

(300段目)
436段を上がって頂上へ。
頂上に、菅原道真が都の方を向かって祈祷したという「おつま立ちの岩」がある。

(おつま立ちの岩)
菅原道真は右大臣にまで昇進したが、当時の醍醐天皇と対立し、901(昌泰4)年、大宰府の長官よりも下の位になる大宰員外帥に左遷される。
失意の道真は、天拝山の頂にある岩に上がり都に向かって、無実の罪が晴れ都に戻れる日が来ること、国家安寧を祈った。
「山上に登った前右大臣菅原道真は七日間天の祈願して、天より大自在天満天神の神格を与えられ、自在神力を得たという、またそのおり菅公は天を謝して九拝しその跡を印した」と階段の上り口にあった案内板にある。
古くは天判(てんぱん)山と呼ばれて標高は258m。それほど高くないので眼下に市街地が広がる。あそこが、そこが、指差して話をしている人たちも多い。地元の人たちには人気のある山だろう。

(天拝山社)

(頂上)

(眺望)

(眺望)

(眺望)
菅原道真が上った時には、大宰府政庁もはっきりと見えたであろう。
山を下る。同じ道を下って、石楠花谷を過ぎたところにあった、地元の歌人松尾光淑の一首。
「此山に のぼりし君が 古へを 思へばかなし 見れば尊し」

(松尾光淑の歌碑)

(道沿いで)
天拝公園のところに戻って、「御自作天満宮」へ。菅原道真が武蔵寺に参籠した時に、自分の等身大の木像座像を刻んで納めたと伝えられ、それが御神体となっていることから、その名前がついている。
新緑の下で琴の演奏は、心を洗われる。

(御自作天満宮境内で)

(御自作天満宮で)
長居も出来ないので、すぐ隣の「武蔵寺」へ。「長者の藤」の前では太鼓の勇壮な響きが。静から一転して動の世界へ引きずり込まれる。

(長者の藤前で)
太鼓の演奏が終わっても人が多く、藤の写真も撮りづらい。玉出泉の樽酒と藤も撮りたかったけど結局撮れなかった。

(長者の藤)

(長者の藤)

(長者の藤)
武蔵寺の創建は飛鳥時代とも奈良時代ともいわれているが、はっきりしたことは判っていない。創建者と伝えられている藤原虎麿という長者が「堂塔の盛衰は、この藤の栄枯にあらん」と誓って植えたことから長者の藤といわれるようになった、といわれている。現在の樹は樹齢700年以上とされている。

(武蔵寺)

(武蔵寺)

(武蔵寺)
お腹も空いた。祭り会場でかしわ餅を買って食べる。
武蔵寺を後にする。

(道沿いで)
しばらく歩くと、またも、歌碑。
「ゆうまくれ しろきはゆきか それならて つきのすみかの かきのうのはな」
壬生基修は、幕末の尊皇攘夷派五卿の一人。

(壬生基修歌碑)
幕末、薩摩や長州とつながりを持った尊王攘夷派の公家は第一次長州征伐の後に太宰府に移された、三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修の5人が五卿とよばれている。彼らの歌碑がいたるところにある。
菅原道真は京都から左遷で大宰府に赴任したが、左遷すなわち大宰府行き、というの江戸時代の終わりまで続いていたのは興味深い。
しばらく歩いて二日市駅近くの「二日市八幡宮」へ。いつもは列車から眺めるだけで、初めて来た。新緑がまぶしい。

(二日市八幡宮)

(二日市八幡宮)

(二日市八幡宮)
ここで、鹿児島から参加されている女性の方とお会いする。網田のコースでもお会いした。JR九州ウォーキングに参加していると、特定の方と続けざまにお会いする機会がよくある。いつも会っていたけど最近は殆ど会わないなぁと思いだす方もいる。
網田のコースを終えてから、熊本城へ行かれたようだ。
このブログもよく読まれていて、網田コースの写真を褒めていただいたが、面映ゆい。それに、褒められる経験は余りないので何とこたえていいか言葉が出ない。照れるしかない。
ありがとうございました。この場で失礼します。
二日市駅をスタートするコースは初参加なので、この後の「ゑびす醤油」にも初めて行く。商品の醤油、出し汁、味噌などを使った料理の試食をさせていただく。並んでいただくがなかなか進まない。女性数人連れの後はあまりいいポジションではないと思いながら辛抱強く待つ。
いろいろ試食した後、吟上醤油を使ったかしわ飯のおにぎりを買った。その横に、しょう油餡をかけて食べるみたらしソフトクリームが。迷わず、これも。ソフトクリームはもちもちして、かけたしょう油餡との相性も良く、店員さんに「美味しかったぁ。」とお礼。

(ゑびす醤油)

(ゑびす醤油で試食)

(みたらしソフトクリーム)
大賀酒造では、ちょっぴり試飲しただけ。飲みすぎに注意しよう。

(大賀酒造)
二日市駅にゴールし、直ぐに来た下り列車で久留米駅へ。

(二日市駅ホームから天拝山?)
新幹線に乗り換え、かしわめしのお握りを食べて今日のウォーキングを終える。
JR九州ウォーキング二日市駅コースに参加。

(今日のマップ)
今日のコースは武蔵寺(ぶぞうじ)の藤鑑賞がメインだが、以前参加した時は天拝山(てんぱいざん)駅スタートだった。
二日市駅を9時10分頃スタート。鹿児島本線の踏切を渡って、「筑紫野市歴史博物館」へ。春の企画展「武蔵寺と二日市温泉」が開催中。

(クリーンデー)

(子育て支援自販機は初めて見た)

(二日市駅を出た電車)

(筑紫野市歴史博物館)
二日市温泉の名は昭和25年からで、それ以前は武蔵(むさし)温泉、古代には次田温泉(すいたのゆ)などとも呼ばれていた、ことを知る。へぇへぇと思いながら観てまわる。
大正4(1915)年の武蔵温泉案内パンフレットは鉄道の時刻表もついて、鉄道と温泉はセットで宣伝されている。武蔵温泉、武蔵寺付近には遊園地もあったようだ。

(武蔵温泉パンフレット)

(武蔵温泉パンフレット)
常設展で、筑紫野市一帯の歴史を学んで歴史博物館を後にし、二日市温泉へ。「御前湯(ごぜんゆ)」は筑紫野市が運営する温泉施設。黒田藩が管理していた時から名が引き継がれている。入浴料250円が100円引きで入れるのだが、入らずに進む。

(道沿いで)

(二日市温泉)

(御前湯)
直ぐ傍に、万葉集に収められている、大友旅人が、次田(すきた)の温泉に宿りて、鶴の喧くを聞きて作る歌一首、「湯の原に 鳴く芦田鶴は わがごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く」の碑がある。
大友旅人は、728年頃、妻の大伴郎女を伴って、大宰府の長官・大宰帥(だざいのそち)として赴任する。60歳過ぎていた。間もなく妻を亡くし、その想いを歌った。

(大友旅人の歌碑)
温泉街を歩いていると爆竹が鳴った。天拝公園でのお祭りが始まったようだ。

(道沿いで)
歌碑があった。
「人ならぬ 草木にさへも わするなよ 忘れしとのみ いはれけるかな」
三条西季知は尊皇攘夷派公家の一人。

(三条西季知歌碑)
高取焼に寄る途中にも碑がある。「鴬や 破るる夢も 惜しからん 温泉に通ふ 下駄と雲雀の 声高し」、江戸末期黒田藩家老も勤めた立花秋水の作。

(立花秋水歌碑)
高取焼で折り返し、藤まつり会場の天拝公園へ。前を行く大勢の人たちの後について行ったが、後からマップを見ると、道が違っていたようだ。

(高取焼入口)

(高取焼入口)

(高取焼)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)

(道沿いで)
天拝公園で少しのんびりして、武蔵寺の方へ向かおうとしたとき、天拝山に上って降りられてこられたKさんご夫妻と会った。「400段の階段を上ってきました。」と聞き、最近疲れ気味ではあるが、やっぱし上ろう。

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝公園)

(天拝山案内板さあ上ろう)
途中に、石楠花谷があって、写真を撮って、上り進む。

(道沿いで)

(道沿いで)

(石楠花谷)

(石楠花谷)

(石楠花谷)

(石楠花谷)
ウォーキングのコースではないのだけど、上ってといる参加者も多い、下ってくるお知り合いの方々ともお会いする。みんな上るんだなあ、と思いつつ上る。

(山上り道)

(山上り道)

(山上り道)

(山上り道)

(途中にある荒穂神社)

(荒穂神社からの眺め)
お祭りや武蔵寺の藤鑑賞に来た人たちも上っている。小さい子も上っている、もう下ってきている子もいる。3、4歳位と思える子どもたちだ。上るにつれ身体もしんどくなってくるが、すまして上ったり、下りたりしている子らに会うと癒され、口元もほころぶ。子らに「頑張るなぁ」など声をかけたりしながら上る。
8合目あたりから階段を上る。へばっている大人たちも増えてくる。

(階段を上りはじめる)
「さあ今から大変」と書いたある100段目の案内板がある。きつそうに上っている人に「まだ四分の一ですよ。」と声をかける。「え、まだ・・・。」
不思議なもので、他の人に声をかけるとこちらが元気になる。

(100段目)
階段200段目「まだ・まだ」

(200段目)
階段300段目「あと一息」

(300段目)
436段を上がって頂上へ。
頂上に、菅原道真が都の方を向かって祈祷したという「おつま立ちの岩」がある。

(おつま立ちの岩)
菅原道真は右大臣にまで昇進したが、当時の醍醐天皇と対立し、901(昌泰4)年、大宰府の長官よりも下の位になる大宰員外帥に左遷される。
失意の道真は、天拝山の頂にある岩に上がり都に向かって、無実の罪が晴れ都に戻れる日が来ること、国家安寧を祈った。
「山上に登った前右大臣菅原道真は七日間天の祈願して、天より大自在天満天神の神格を与えられ、自在神力を得たという、またそのおり菅公は天を謝して九拝しその跡を印した」と階段の上り口にあった案内板にある。
古くは天判(てんぱん)山と呼ばれて標高は258m。それほど高くないので眼下に市街地が広がる。あそこが、そこが、指差して話をしている人たちも多い。地元の人たちには人気のある山だろう。

(天拝山社)

(頂上)

(眺望)

(眺望)

(眺望)
菅原道真が上った時には、大宰府政庁もはっきりと見えたであろう。
山を下る。同じ道を下って、石楠花谷を過ぎたところにあった、地元の歌人松尾光淑の一首。
「此山に のぼりし君が 古へを 思へばかなし 見れば尊し」

(松尾光淑の歌碑)

(道沿いで)
天拝公園のところに戻って、「御自作天満宮」へ。菅原道真が武蔵寺に参籠した時に、自分の等身大の木像座像を刻んで納めたと伝えられ、それが御神体となっていることから、その名前がついている。
新緑の下で琴の演奏は、心を洗われる。

(御自作天満宮境内で)

(御自作天満宮で)
長居も出来ないので、すぐ隣の「武蔵寺」へ。「長者の藤」の前では太鼓の勇壮な響きが。静から一転して動の世界へ引きずり込まれる。

(長者の藤前で)
太鼓の演奏が終わっても人が多く、藤の写真も撮りづらい。玉出泉の樽酒と藤も撮りたかったけど結局撮れなかった。

(長者の藤)

(長者の藤)

(長者の藤)
武蔵寺の創建は飛鳥時代とも奈良時代ともいわれているが、はっきりしたことは判っていない。創建者と伝えられている藤原虎麿という長者が「堂塔の盛衰は、この藤の栄枯にあらん」と誓って植えたことから長者の藤といわれるようになった、といわれている。現在の樹は樹齢700年以上とされている。

(武蔵寺)

(武蔵寺)

(武蔵寺)
お腹も空いた。祭り会場でかしわ餅を買って食べる。
武蔵寺を後にする。

(道沿いで)
しばらく歩くと、またも、歌碑。
「ゆうまくれ しろきはゆきか それならて つきのすみかの かきのうのはな」
壬生基修は、幕末の尊皇攘夷派五卿の一人。

(壬生基修歌碑)
幕末、薩摩や長州とつながりを持った尊王攘夷派の公家は第一次長州征伐の後に太宰府に移された、三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修の5人が五卿とよばれている。彼らの歌碑がいたるところにある。
菅原道真は京都から左遷で大宰府に赴任したが、左遷すなわち大宰府行き、というの江戸時代の終わりまで続いていたのは興味深い。
しばらく歩いて二日市駅近くの「二日市八幡宮」へ。いつもは列車から眺めるだけで、初めて来た。新緑がまぶしい。

(二日市八幡宮)

(二日市八幡宮)

(二日市八幡宮)
ここで、鹿児島から参加されている女性の方とお会いする。網田のコースでもお会いした。JR九州ウォーキングに参加していると、特定の方と続けざまにお会いする機会がよくある。いつも会っていたけど最近は殆ど会わないなぁと思いだす方もいる。
網田のコースを終えてから、熊本城へ行かれたようだ。
このブログもよく読まれていて、網田コースの写真を褒めていただいたが、面映ゆい。それに、褒められる経験は余りないので何とこたえていいか言葉が出ない。照れるしかない。
ありがとうございました。この場で失礼します。
二日市駅をスタートするコースは初参加なので、この後の「ゑびす醤油」にも初めて行く。商品の醤油、出し汁、味噌などを使った料理の試食をさせていただく。並んでいただくがなかなか進まない。女性数人連れの後はあまりいいポジションではないと思いながら辛抱強く待つ。
いろいろ試食した後、吟上醤油を使ったかしわ飯のおにぎりを買った。その横に、しょう油餡をかけて食べるみたらしソフトクリームが。迷わず、これも。ソフトクリームはもちもちして、かけたしょう油餡との相性も良く、店員さんに「美味しかったぁ。」とお礼。

(ゑびす醤油)

(ゑびす醤油で試食)

(みたらしソフトクリーム)
大賀酒造では、ちょっぴり試飲しただけ。飲みすぎに注意しよう。

(大賀酒造)
二日市駅にゴールし、直ぐに来た下り列車で久留米駅へ。

(二日市駅ホームから天拝山?)
新幹線に乗り換え、かしわめしのお握りを食べて今日のウォーキングを終える。
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