はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

比喩的な表現や暗喩的表現が嫌われる時代かぁ

2013年08月14日 | 日記

 亡くなった歌手、尾崎豊の音楽を始めて聴いたのは、彼のデビュー前のサンプル版でだった。そのレコード会社から広告を得ていた営業マン氏が、凄い凄いと連発していたのである。

 確かに、多くの若者が共感するであろう内容を直裁に歌詞にしていて、あまりにストレートな物言いに、いささか辟易した記憶がある。

 物事には不条理がある。不条理の塊が世界と言ってもいいだろう。裸の王様に向かって、あんたは裸だ、と叫ぶことが、真実ではあるが、常に正しいとは限らない。真実を求めるが故に、相手にその真実を認めさせなければ、相手が権力を持つ「大人」である場合には、単に無視され、その真実は届かないのである。

 しかし、その真実に知らぬうちに多くの人が同意してしまうような「表現」方法が世の中にはあって、それは単に比喩的な表現である場合もあるし、逆説を重ねることで暗喩として言外に真実を知らしめる、という方法だってある。

 ところが、比喩や暗喩は、比較すべきものが、受け手に理解されている、という前提が必要となる。相手がアンポンタンならば、比喩すら通じないということになる。仄めかしとしての暗喩も、仄めかされているものが何かを相手が知らぬと、まったく意味を成さなくなる。

 あまりに直裁な言葉ばかりが乱発されると、時としてヒトは耳を覆うのである。だから言葉が届かないし、言葉にこめようとした真実さえ届かないことになる。

 メタファーが使えない世界に、いつの間にか日本はなってしまって、直裁であり、なおかつ暴力的な言葉ばかりが蔓延するようになった。言葉を発する前に「考える」事を止めているからなのではないか。単にむき出しの感情を、直裁な言葉でぶつけあうことが、すべての相互理解になるとは思えない。いや、相互理解を否定しているだけなのかも知れない。

 であれば、それは蛸壺である。思考の因習化、言語の侮蔑化である。知の衰退とも言える。

 あの、大久保のヘイトスピーチの動画を見て、あそこに知性を感じますか?単なる感情の捌け口としてしか存在していないように見えるのだ。困るぞ。