はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

【遠隔操作ウイルス事件】片山祐輔被告保釈会見「自由の眩しさをあらためて感じている」

2014年03月06日 | 日記

【遠隔操作ウイルス事件】片山祐輔被告保釈会見「自由の眩しさをあらためて感じている」

この会見を見て、この事件の犯人とされたかのような人と共通点の方は感じるのだけども、真犯人だとしたら、その手口の巧みさと相容れないものを感じるのはオレだけか?

第一に証拠が薄弱である。この程度の証拠で有罪を勝ち取っていた警察や検察がかって存在していたわけだ。自白に拠るものである。裁判所は法制度上拷問に類する違法な取り調べは「無い」という建前だから、かなりきわどい取り調べ(拷問?)による自白でも、その合法性を前提として有罪判決を下していた。

裁判員裁判の判決で無罪となり、上級審で有罪となる事例が増えているのが、その証拠と取り調べ手法の脆弱さを物語るのだが、裁判員裁判で無罪と判決された内容が、上級審で覆るのは、つまりは裁判所が官憲に阿る態度を採っているからだろう。裁判員が有罪判決が出せぬほど薄弱な証拠で有罪にするのは、予め有罪が「決定事項」だからに過ぎない。

この遠隔操作ウィルス事件は、裁判員裁判ではないのだが、メディアを含め、並の裁判員裁判よりも耳目を集めている。それは、それまで「有罪」や「起訴」が決定していた「被告」などが、実は軒並み無罪というより無実だということが、実行犯によって証明されたからだ。

検察の主張に、片山君が収監されているからこそ、真犯人の犯行声明が出ないのだ、という理屈があったが、オレが犯人だったら(もちろんオレは犯人じゃないが)、片山君の有罪が確定し、刑務所に収監された後に、おちょくったように真犯人が犯行声明を各マスコミに送りつけるだろうなぁ。そして、この警察や検察の権威と面目を丸つぶしにする。

オレが理解できないのは、検察官がそうした恐怖を感じずに、片山有罪に突き進む姿だ。犯行声明が出ていないから安心しているのではないか。

でも、考えてみてほしい。有罪判決が出た後、前回は犯行声明が出たのではないか。つまり、検察も警察も、科学捜査などとは言うが、実は問題のソフトウェアを作成したコンピュータすら特定していないのである。片山君の職場のコンピュータを押収して解析したらしいが、いくつかのそれらしき残骸があっただけだ。ディスクをダンプして調べたのだろうが、もちろん上書きしても、完全にできるものではないから、専用のツールを使えば、ある程度ハードディスクのセクタごとの解析は可能となる。膨大な手間暇はかかるだろうけど。それで、問題の悪意あるソフトウェアが復元できればいいのだが、作成した際の作業領域などの経過もハードディスク上には残る。果たしてそれもバキュームできているのか。

ソフトウェアはトライ&エラーが必須だ。どれほど緻密にアルゴリズムを組み上げ、それをコードにしても、思いもよらぬことが起きる。キーボードからの入力ミスや、桁数の勘違いなど、一発でうまく思い通りに動くプログラムなどは、ほとんどの人が書けないし、まれにはシステムが用意しているというAPIが示すライブラリに問題が生じる場合もある。そうした痕跡はかなりハッキリした形で残るし、その作業の痕跡が無いと、それは開発に使われたマシンではないと言える。そうした特定ができているのか。むしろ不正ソフトの作成は、人よりも物の方に証拠が歴然と残る。

どうも、そうした証拠が薄弱にしか見えないのはなぜだろう。示せないのはなぜだろう。そうした証拠が示せない限り、オレは片山君が有罪だとはとても思えない。いや、更に緻密にそうした事を想定して作っている力があるのだとしたら、こんな間抜けな捕まり方はしないだろうと思うのだが、どうか。


柏市の連続通り魔殺傷事件

2014年03月06日 | 日記

困っちゃうんだよなぁ。こういうヒトが登場するのは。容疑者がかなりの確率で物証が上がって真犯人と思われる状態で逮捕されたけど、ご当人のサイトと思われるものがある。意味不明である。

本人が「精神病の為、職業は休業させていただいております」などと記しているのだが、意味不明でも日本語にはなっているし、中卒だという事からいわゆる「ひきこもり」の「凶暴化」した事件とも言える。

宅間守の池田小学校事件や、金川真大の土浦連続殺傷事件は、平たく言えば自殺できないから死刑にしろ。死刑になるためには、大人数を殺すしか無い、という、ほとんど身勝手な動機でありながら、本人の希望通りに死刑判決が出て執行された。

宅間にしろ金川にしろ、自分が世の中に存在していてはいけない、という思いはあったわけだ。だからこそ、反省の弁などは全く無く、粛々と刑を受けた。

この事の重大性を、実は多くの人間が「起きた事象の重大さ」にだけ重きを置いて語っているのだが、オレはむしろ、宅間や金川に共通する自分への異様なまでの評価の低さをこそ問題にすべきではないかと思うのだ。

秋葉原通り魔事件の犯人である加藤智大は、それなりの地方の秀才が、飛び抜けた存在で無いという事を自覚して自暴自棄の果てのものに見える。尊大な自意識を現実が押しつぶした結果の蹉跌が生み出した狂気と見ると、それなりに犯行そのものは許せなくても、その犯行に至る心情は想像の範疇だ。

ところが、宅間や金川の心の中は、オレには理解できない。なにか自己否定どころではない異質なものを感じてしまう。彼らが体現して見せた人間のある病理がオレを戦慄させる。それは彼らが自死するための手段として死刑を選択し、そのために多くの人を無差別に殺傷するという行為を行った点だ。

長年閉じ込めていた鬱積した思いが一気に発酵し泡となって発現したのかも知れないが、どうにも腑に落ちない。オレなんぞは宅間守の事件の際には、あれだけ人を殺すと確実に死刑になるのだから、小学校ではなく暴力団事務所に突入し殺し回ればよかったのに、と思うが、相手が抵抗する強さを持つと、多分途端に意気込みが薄れてしまうという、実は軟弱さを併せ持っていたのだろうと思う。そうした点では、相手が反撃可能な年代の人物を無差別に殺傷した金川の方が、まだその無差別性故に、なるほど死刑になりたかったのか、あるいは反撃されてそこで死んでも構わないと腹をくくっていたのか、と思うのだ。

いずれにしろ、理解ができない。そして、理解が出来ないという点では、この柏市の事件も同様であり、犯人とされる人物が綴ったという上記のサイトの惑乱した文章を見ると、ますますこの事件を彼がなんのために起こしたのかが理解の外になってしまう。

理解しなくてもいいのかも知れない。理解すると、同じような行動に出てしまう人がいるかも知れないからだ。整合性も何もない文章で正解なのか。これで整合性があり、論理が整っていれば、本当に模倣犯が出る可能性がある。これ読んで納得して模倣犯が出たら、それはそれで別の意味で怖いけど。

 


映画「ガレキとラジオ」やらせ報道について。- 2014.03.05

2014年03月06日 | 日記

映画「ガレキとラジオ」やらせ報道について。- 2014.03.05

演出の枠を超えるのは明らかだ。ドキュメンタリー映画として作られた中に、お涙頂戴場面を作ろうとするあざとさは、確かにこの「ぽぽんぷぶにゃんらじお」の指摘通りである。映画がスポンサーの出資によって作られた商用映画ならば、ドキュメンタリーと銘打っての公開は駄目だろう。

テレビ局ディレクター出身の監督なのか。過剰な演出をヤラセと認識しないのはアホである。例えば「朝日のあたる家」のような劇映画であれば、文句は言わない。時に上滑りしたお涙頂戴部分があったとしても、それはそれである。

そもそも、こうした被災し、身も心も極端に傷めつけられた人は、こうした映像の中に登場する事すら拒否する。「こんなにひどい目にあったのだ」と公言する方々は、それだけで十分に復旧・復興に積極的な立場であるが、真に心が折られるほどの打撃を受けた人は、こうしたドキュメンタリーの場にすら出てこない。つまり「お前なんかにオレの気持ちが分かるか!」という状態になるのである。

そうした痛んだ人に寄り添うような映画は少ない。そうした気持ちが分かる人が、実は映画などの製作者にはほとんどいないからだ。テレビ局などは尚更である。オレは阪神淡路震災の時の筑紫哲也の大名行列を批判したのだが、つまり筑紫などのインタビューに答えない人、答えたくない人、答えを拒否する人こそが、実はこうした被災地域の中で、最も痛んでいる人なのだ。テレビを通じて被災状況を語るというのは、それだけで前向きなのだ。そうした心すら折れてしまった人は、その取材すら疎ましく感じる。

誰に寄り添うのか、という立場である。そうした折れた心の人たちへの眼差が注がれていないドキュメンタリーって、それだけで落第だし、そうした前提が無い報道もまた、落第だと思うのである。