今は麻は大麻と言ってご法度なのだが、オレの子供の頃は目の前に山ほど麻が自生していた。葉っぱはじゃまだから取り去って、友人と茎でチャンバラをしていた。
自家の前には廃校になった古い小学校の校舎があって、道を挟んでかっての校庭が手つかずに残っていた。木造の校舎の一部は、発足したばかりの商業高校が校舎を建てる前に仮教室としていくつか使っていたのだが、それは一部であり、あとは子供が探検するのに持ってこいの巨大な廃屋となっていた。
3つにわかれた入り口の前には、巨大で虚が幹に生じている柳の木が生えていて、オレの家の脇には小高く築山が作られていて、その上には二宮尊徳の薪を背負って本を読む、あの彫像が置かれていた。
その築山の周りは麻が群生していて、今は田舎の市役所で課長をしているS君などと、チャンバラをして遊んでいたのである。麻の茎は子供がチャンバラをするのに最適の硬度と強度で、思い切り胴体を叩かれても、少し痛いという程度で済んでしまう。
密集した麻の群落は、身を隠すのにも適していて、忍者ごっこなどには最適だったのだ。
ある日突然、釜を持った警官と思しき人たちがやってきて、その麻を根こそぎ刈り取ってしまった。それで麻の茎を利用した、ほとんど全力で相手を叩くチャンバラは終わってしまった。チャンバラができなくなる、と抗議したが撮り合ってもらえなかった記憶がある。
代わりに使おうと思ったのははイタドリという植物だが、これはオレの子供の頃はスカンポなどと呼んでいて、二三度思い切りチャンバラで打ち合いをするとバラバラになってしまうから、結局根曲がり竹という細い竹がチャンバラ道具となる。これは当たると痛いので、相手をめがけてではなく、相手が持っている竹をめがけて思い切り打ち込み、受け払う事になった。
根曲がり竹というのはまっすぐなものが少ない。北海道では筍というとこの根曲がり竹の筍の事なのだが、細いので、農作業などに容易に使えるtめ、筍以上にオレの子供の頃はどこにでも転がっていた。ちょっとした家庭菜園に近いビニールハウスならば、これで十分に間に合う。
つまり、オレなんか麻という植物は知っているし、触ったこともあるのだが、チャンバラの道具というのが初めての体験だったのである。麻という名前も知らなかった。
作家の浅黄斑によると、日本で薬物についての法律が真っ当に出来たのは戦後だという。時代劇などで「ご禁制の阿片」などと言うセリフがあるが、徳川実記などの記録では、阿片に限らずそうしたものが禁制になった記録は無いとの事である。つまり「ご禁制の阿片」がウソなのだ。
そもそも江戸時代の日本の漢方は、相当に協力な作用をする薬草が含まれている。阿片は阿芙蓉などと呼ばれ、麻酔薬としても「使い物にならない」とされていたのだ。
戦国時代、織田信長が最も手を焼いたのが一向一揆である。一向宗が大した武器も持たず、妄信的、狂信的に女子供まで織田軍に攻撃をしかけてくる。死をも厭わない。これは実は一向宗が一揆前にあつまり、ほとんど麻薬的な成分の護摩を炊いて、極楽浄土を目指すという、いわば「薬剤による洗脳」の結果ではないかとも言われる。
もちろんそうした薬剤には副作用があるが、一揆前である。一揆で死ぬのは当たり前と思っているから、副作用などを気にする必要はない。
ベトナム戦争では、米兵が逆に一向宗のような立場に立った。泥沼化する戦争の中で、マリファナは普通のものとなる。他人を意のままに操るための薬剤としては麻薬は最適ではないか。このまま安倍政権が突き進むと、そうした目的故に、マリファナ解禁などと言い始まる可能性もあるわけだ。そこから、更に麻薬・覚醒剤と普及していく。戦後の日本の立ち直りは、挑戦戦争特需と、それを支える過重労働、その過重労働をヒロポンという覚醒剤が支えていた面も否定できない。
原発安全神話が崩壊して、放射能安全神話という誰も信じない虚言を広め始めた。あとは麻薬安全神話が成立したら、警察も手間は省ける。譫妄状態で暴れ始めたら射殺やむなしとなる。強権政治と恐怖政治は等価だし、その恐怖を庶民に認識させないためにも、現在では規制薬物とされている薬品の多くが、名前を変えて安全・安心のもと蔓延するのではないか。