はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

馴染めない

2014年04月26日 | 日記

札幌大通り公演でのチェルノブイリ市民集会にチョットだけ顔を出した。労組の旗、主宰しているであろう生活クラブ生協の旗、北教組の旗、退職した北教組のヒトタチの幟がたなびく。

昔からデモや集会に参加しても、この旗や幟の下に集っているのではないから、参加しても疎外感がある。オレは、反被曝というワンイシューで参加しているのだが、他のイシューもひっくるめてというのが市民活動には存在する。オレのようなワンイシューの人間は、そうした集会の式次第だって鬱陶しいのである。

今回も、オレは個人として参加したわけだが、その「組織」によって動員された人とは距離がある。

経産省前のテント村で「旗をやめて欲しい」という発言が出たらしい。もっともである。市民が意思を気軽に表明できるデモや集会には、そうした旗による動員は勘弁である。自発的に参加したいと思う人を、あの組織名の入った旗や幟は阻害する。

オレも労組に関わっていたことがあるから分かる。組織の理論は労組内部での理屈である。それが市民社会に出た時点で、ちょっと違うことがあるんじゃないか、という思いがある。

組織を介して人を集めるという行為は、その主張を表に出して訴えたい時には必要なのだろうが、そのイシューが組織の論理で運用されてしまうのには抵抗を感じるのだ。

脱原発や反原発を個人的に思っているヒトタチも、デモには及び腰なのは、つまり、この旗や幟を掲げる組織と、総て同じように考えていると思われたくないためだ。これで、掲げられている旗が「脱原発」とか「反原発」とか「被曝を避けよう」というものならば、もっと広がるのは間違いない。

そこに一介の市民と、活動家の乖離があるのだが、その溝は思いのほか深く、旗の下に集う人には、旗を排除することなど思いもよらないだろう。馴染めないのは、そうした旗にアイデンティティを求める人達の思い、なのである。


4月25日(金)のつぶやき

2014年04月26日 | 日記