世の中には「自分探し」などをしている人が多い。でも、それは「今在る自分は本当の自分じゃない」などという幻想というか妄想を糧にしてのものだろう。例えば「他人から評価されない」「自分の能力はこんなものじゃない」などという、一種の仮想の自分を単に作り上げているだけだ。
人は多様な生き物であるが、しかし単独では生きられない。社会という母集団の中での自分の存在位置を確かめたいという思いがあるのだろう。しかし、社会の中での自分の位置付けは、残念ながら自分では決められない。その社会の中の構成員である他人が「評価」して決めるものである。つまり、社会の中での位置付けとは、文字通り他人が主として評価する位置付けに他ならない。
で、あるならば、そもそも仮想の自分という他者の評価を排する自己充足的な評価が、そもそも自分という社会的存在に於いて意味を持つことであるのかどうか。そもそも探すべき自分などが存在するのかどうかすら怪しい。評価そのものも怪しいし、評価すべき自分と言う存在すら怪しいのである。
それでも、どうしても自分探しを続けたいのならば、一度社会生活をすべて断ち切ってみてはどうか。生存すら危うくなるほど、無人島でのロビンソン・クルーソーのような生活を行ってみてはどうか。そこで、生き延びる自分を省みると、何のために生きているのかという問いさえ不毛となるのではないか。ただただ命を繋ぐために、食料として動植物を狩猟採取する。それは単に「生き続けたい」という本能的な衝動だけでしかない。
生命は100%死ぬ。誕生することによって、致死率100%である死という終焉に向かって、一方通行の人生を過ごす。それを知っているからこそ、自分が生き延びる代替措置として子供を欲する。子供にとっては本人の意図とは無関係にこの世に産み出される。しかも、年齢を経ることや事故・事件・病などによって、その生まれた子供は更に確実に死んで行く。その死生の繰り返しが生命を繋ぐわけだが、その摂理の前には「自分」などという個の主張は、実に儚いものではないか。その自然の摂理という範囲でしか人は存在していない。そこを脱するための、ある種の思想が仏教の解脱である。でも、残念なことに、生きている人間は解脱できない。自然の摂理でもある死の前に屈する。
残念なことにあなたも私も思っている「自分」は、ただただそこに居る「自分」だけなのであり、外に求めて探しても、そんなものは存在しない。むしろ、母集団となる社会の中で、どう社会そのものを今の自分が生きて行くのかが、多分問題なのだろう。自分を探すのではなく、生き方を探すのならば、それは十分に理解はできるのだが、そのためには、それまでの自分を時として変えねばならぬ場合もある。その変化には、多くの場合苦痛が伴う。更に母集団である社会というものについて「自分がどうあれば生きやすいのか」を考えねばならない。社会は複数の個の主張しあう場でもあるから、十分に「自分」にとってだけ都合の良いものにはならない。他者の個、つまり他人の「自分」と自分の「自分」を折り合いを付けながら生きていく。その折り合いを付ける作業が実は大変で、容易に「自分探し」などをしている暇は無いのである。
人は多様な生き物であるが、しかし単独では生きられない。社会という母集団の中での自分の存在位置を確かめたいという思いがあるのだろう。しかし、社会の中での自分の位置付けは、残念ながら自分では決められない。その社会の中の構成員である他人が「評価」して決めるものである。つまり、社会の中での位置付けとは、文字通り他人が主として評価する位置付けに他ならない。
で、あるならば、そもそも仮想の自分という他者の評価を排する自己充足的な評価が、そもそも自分という社会的存在に於いて意味を持つことであるのかどうか。そもそも探すべき自分などが存在するのかどうかすら怪しい。評価そのものも怪しいし、評価すべき自分と言う存在すら怪しいのである。
それでも、どうしても自分探しを続けたいのならば、一度社会生活をすべて断ち切ってみてはどうか。生存すら危うくなるほど、無人島でのロビンソン・クルーソーのような生活を行ってみてはどうか。そこで、生き延びる自分を省みると、何のために生きているのかという問いさえ不毛となるのではないか。ただただ命を繋ぐために、食料として動植物を狩猟採取する。それは単に「生き続けたい」という本能的な衝動だけでしかない。
生命は100%死ぬ。誕生することによって、致死率100%である死という終焉に向かって、一方通行の人生を過ごす。それを知っているからこそ、自分が生き延びる代替措置として子供を欲する。子供にとっては本人の意図とは無関係にこの世に産み出される。しかも、年齢を経ることや事故・事件・病などによって、その生まれた子供は更に確実に死んで行く。その死生の繰り返しが生命を繋ぐわけだが、その摂理の前には「自分」などという個の主張は、実に儚いものではないか。その自然の摂理という範囲でしか人は存在していない。そこを脱するための、ある種の思想が仏教の解脱である。でも、残念なことに、生きている人間は解脱できない。自然の摂理でもある死の前に屈する。
残念なことにあなたも私も思っている「自分」は、ただただそこに居る「自分」だけなのであり、外に求めて探しても、そんなものは存在しない。むしろ、母集団となる社会の中で、どう社会そのものを今の自分が生きて行くのかが、多分問題なのだろう。自分を探すのではなく、生き方を探すのならば、それは十分に理解はできるのだが、そのためには、それまでの自分を時として変えねばならぬ場合もある。その変化には、多くの場合苦痛が伴う。更に母集団である社会というものについて「自分がどうあれば生きやすいのか」を考えねばならない。社会は複数の個の主張しあう場でもあるから、十分に「自分」にとってだけ都合の良いものにはならない。他者の個、つまり他人の「自分」と自分の「自分」を折り合いを付けながら生きていく。その折り合いを付ける作業が実は大変で、容易に「自分探し」などをしている暇は無いのである。