困っちゃうんだよなぁ。こういうヒトが登場するのは。容疑者がかなりの確率で物証が上がって真犯人と思われる状態で逮捕されたけど、ご当人のサイトと思われるものがある。意味不明である。
本人が「精神病の為、職業は休業させていただいております」などと記しているのだが、意味不明でも日本語にはなっているし、中卒だという事からいわゆる「ひきこもり」の「凶暴化」した事件とも言える。
宅間守の池田小学校事件や、金川真大の土浦連続殺傷事件は、平たく言えば自殺できないから死刑にしろ。死刑になるためには、大人数を殺すしか無い、という、ほとんど身勝手な動機でありながら、本人の希望通りに死刑判決が出て執行された。
宅間にしろ金川にしろ、自分が世の中に存在していてはいけない、という思いはあったわけだ。だからこそ、反省の弁などは全く無く、粛々と刑を受けた。
この事の重大性を、実は多くの人間が「起きた事象の重大さ」にだけ重きを置いて語っているのだが、オレはむしろ、宅間や金川に共通する自分への異様なまでの評価の低さをこそ問題にすべきではないかと思うのだ。
秋葉原通り魔事件の犯人である加藤智大は、それなりの地方の秀才が、飛び抜けた存在で無いという事を自覚して自暴自棄の果てのものに見える。尊大な自意識を現実が押しつぶした結果の蹉跌が生み出した狂気と見ると、それなりに犯行そのものは許せなくても、その犯行に至る心情は想像の範疇だ。
ところが、宅間や金川の心の中は、オレには理解できない。なにか自己否定どころではない異質なものを感じてしまう。彼らが体現して見せた人間のある病理がオレを戦慄させる。それは彼らが自死するための手段として死刑を選択し、そのために多くの人を無差別に殺傷するという行為を行った点だ。
長年閉じ込めていた鬱積した思いが一気に発酵し泡となって発現したのかも知れないが、どうにも腑に落ちない。オレなんぞは宅間守の事件の際には、あれだけ人を殺すと確実に死刑になるのだから、小学校ではなく暴力団事務所に突入し殺し回ればよかったのに、と思うが、相手が抵抗する強さを持つと、多分途端に意気込みが薄れてしまうという、実は軟弱さを併せ持っていたのだろうと思う。そうした点では、相手が反撃可能な年代の人物を無差別に殺傷した金川の方が、まだその無差別性故に、なるほど死刑になりたかったのか、あるいは反撃されてそこで死んでも構わないと腹をくくっていたのか、と思うのだ。
いずれにしろ、理解ができない。そして、理解が出来ないという点では、この柏市の事件も同様であり、犯人とされる人物が綴ったという上記のサイトの惑乱した文章を見ると、ますますこの事件を彼がなんのために起こしたのかが理解の外になってしまう。
理解しなくてもいいのかも知れない。理解すると、同じような行動に出てしまう人がいるかも知れないからだ。整合性も何もない文章で正解なのか。これで整合性があり、論理が整っていれば、本当に模倣犯が出る可能性がある。これ読んで納得して模倣犯が出たら、それはそれで別の意味で怖いけど。