映画「ガレキとラジオ」やらせ報道について。- 2014.03.05
演出の枠を超えるのは明らかだ。ドキュメンタリー映画として作られた中に、お涙頂戴場面を作ろうとするあざとさは、確かにこの「ぽぽんぷぶにゃんらじお」の指摘通りである。映画がスポンサーの出資によって作られた商用映画ならば、ドキュメンタリーと銘打っての公開は駄目だろう。
テレビ局ディレクター出身の監督なのか。過剰な演出をヤラセと認識しないのはアホである。例えば「朝日のあたる家」のような劇映画であれば、文句は言わない。時に上滑りしたお涙頂戴部分があったとしても、それはそれである。
そもそも、こうした被災し、身も心も極端に傷めつけられた人は、こうした映像の中に登場する事すら拒否する。「こんなにひどい目にあったのだ」と公言する方々は、それだけで十分に復旧・復興に積極的な立場であるが、真に心が折られるほどの打撃を受けた人は、こうしたドキュメンタリーの場にすら出てこない。つまり「お前なんかにオレの気持ちが分かるか!」という状態になるのである。
そうした痛んだ人に寄り添うような映画は少ない。そうした気持ちが分かる人が、実は映画などの製作者にはほとんどいないからだ。テレビ局などは尚更である。オレは阪神淡路震災の時の筑紫哲也の大名行列を批判したのだが、つまり筑紫などのインタビューに答えない人、答えたくない人、答えを拒否する人こそが、実はこうした被災地域の中で、最も痛んでいる人なのだ。テレビを通じて被災状況を語るというのは、それだけで前向きなのだ。そうした心すら折れてしまった人は、その取材すら疎ましく感じる。
誰に寄り添うのか、という立場である。そうした折れた心の人たちへの眼差が注がれていないドキュメンタリーって、それだけで落第だし、そうした前提が無い報道もまた、落第だと思うのである。