多摩川 健・・リタイアシニアのつれずれ・・時代小説

最近は元禄時代「寺子屋師匠 菊池三之丞 事件控え」全30話書いてます。週2-3回更新で順次 公開予定。

電子版のご案内 

2025年01月15日 20時31分20秒 | 時代小説

友人とご贔屓の皆様へ
     
     新年早々から、私事のPRで恐縮です。80過ぎてからの手習いで往生いたしましたが、アマゾンでとりあえず、スマホ、PC版の 短編娯楽小説配信に漕ぎつけました。日ごろのご縁で、お連れ合いや家族の皆様とご笑覧頂ければ嬉しい限りです。寒さ厳しき折柄ご自愛くださいませ。

1-AMAZON(amazon co jp)公式サイトから


2-最上段の「すべての検索」に 「多摩川 健」で表示されます。
  (ペンネ-ムです)
3-kindle電子版が 二件入っています。おすすめは1-10話の方ですが、長すぎる場合は1-3話でも。保存で途中からでも、後日閲覧可能です。

4-「こんな輩もいた 江戸 元禄 人模様 第一話から第十話」
    ASIN番号 B0DT3NJ87C
     日本価格 100円
   1月18日日本時間17:00から 23日16:59まで無料の予定。

5-「こんな輩もいた 江戸 元禄 人模様 第一話から第三話」
    ASIN番号 B0DSB1RY98  
     日本価格 99円    無料サービスは終了

6―とりあえずはスマホ中心の配信版ですが、ペーパバック本にトライ中です。
USA基準ですから、目次 本文 表紙 裏表紙、背表紙のpdf画像取り 込みや調整合わせに苦労しています。多分1-10話は厚く、255頁くらいで1000円越くらいになりそうですが、

うまくいけば 此の第一シリーズは短編で53話あります。今は将軍綱吉元禄期から、次の吉宗享保時代の中編50話の予定に取り掛かっています。
文化文政、幕末、明治、大正、昭和、平成、令和まで繋げたいものですが、
さて・・・・どうでしょうか! 

7ー今のところはPRでアマゾンUSAが殆ど印刷費負担で、個人マージンは1-10円くらいです。気楽な娯楽小説好きの方他にPR頂き、アマゾンジャパンから買っていただければ有難い限りです。よろしくご贔屓頂き、感想など頂ければ、これに勝る喜びはございません。
余禄が在りました折は、お会いして一献差し上げたく!! 笑い!

2025年1月  (ペンネーム 多摩川 健)

 

 

 


kindle 多摩川 健 時代娯楽小説

2025年01月07日 11時53分24秒 | 時代小説

 

 寒中見舞い申し上げます。新年早々、私事のPRで恐縮です。

本年のご家族皆様のご健勝をお祈り申し上げます。

一月七日 正午から十一日の正午までアマゾン KINDLEで

「こんな輩もいた 江戸元禄人模様 第一話~第三話 (著者 多摩川 健)」出版の予定で、この電子版は当面この五日間無料,以降は99円の予定です。

書籍版はおいおいですが500円の予定でおります。昭和時代のオジンの付き合いで、ご笑覧いただき感想などいただければ幸甚です。 第一シリーズ江戸元禄53話短編からただいまは第二シリーズ享保時代です、今後江戸文化・文政時代から幕末、明治、大正、昭和、平成、令和時代までファミーを核に、文化的にも人間的にも繋げるのが構想です。「日本人の普通の家族、文化、営みを娯楽小説として紡ぎたく思います」

 今後ともよろしくお願いいたします。

検索は「kindle、 多摩川 健」から等です。 

(2025年1月7日 多摩川 健)


アマゾン KINDOLEで 1月9日から 電子出版予定

2025年01月06日 11時29分22秒 | 時代小説

  

 

来週9日からアマゾン KINDLEで 電子版 書籍版

「こんな輩もいた 江戸元禄人模様 第一話~第三話

(著者 多摩川 健)」

出版の予定です。過去紹介分は削除いたしました。 申し訳ありません。

  電子版は当面無料、書籍版は500円の予定でおります。引き続いて応援いただければ幸甚です。

 

叉都度の紹介文は発信予定です。第一シリーズ元禄からただいまは第二シリーズ享保です、コンゴ江戸文化・文政時代から幕末、明治、大正、昭和、平成、令和時代までファミーを核に、文化的にも人間的にも繋げるのが構想です。

「日本人の普通の家族、文化、営みを娯楽小説として紡ぎたく思います」

 今後ともよろしくお願いいたします。

(2025年1月6日 多摩川 健)

 

 

 


オジンのつぶやき・・その4 小学生時代

2022年11月28日 15時13分09秒 | デッサン・雑感

今日のつぶやきはその4

 

1950年から1953年  ちょうど小学校の一年から四年ぐらいまでの事を思い出しながら少し振り返ってみたいと思います。

 

昭和で言いますと1950年が昭和の25年で 1953年は昭和28年 ちょうど1950年は、国外では朝鮮戦争が始まりまして・・日本は大変朝鮮戦争で景気のいい時代の突入.  それから翌年の1951年には日米安保の調印が行われ、52年には血のメーデー事件、53年に吉田茂のバカヤロー解散があった時期に当たります。

 

 社会的には50年は金閣寺の放火、51年が羅生門がベネチアで受賞,1951年が例の・・・「君の名は」がラジオ番組で日本中を駆け回った時代です。

 

 1953年がテレビ放送が開始された時代です。

 

 私は小学校1年で前回にも述べたように自分の意思とはあまり関係なく、演劇部へ入らざるを得ないような羽目になりました。

 イタチのペースケという役を代役で始めたところからでした・・・・確かI君というのがもともとだったんですが・・何が?どうしたはずみかよく分からないまま・・・・私が先生からの代役指名でした。

 なんとなく・・・気まずさもありでしたが・・この演劇が大好評だったようです。

 

 小学校1年の後半で学芸会で好評を博して以降・・・・原町小学校の演劇部に所属ということになりました。6年間6年までやってましたね。 当時の先生は女性のO先生でしたけれども,私は専ら友人達との遊びや出かけるのが、が大好きでありまして、よく学校から帰ると、祖母と今で言うと、東北 宇都宮の手前の小山の先の小金井というところがあると思いますが・・・そこへ米の買い出しに行って、帰りの小山の駅で、一斉検察に会って・・・米袋を・・みんな列車の窓から投げ捨てるなんていう光景も目撃したりしておった時代です。真っ白な炊き立てのコメに…おしんこが 買い出し先ではふるまわれました。

 

 

演劇部での思い出と言いますと・・・私より一つ年上で・・・大女優になってる十朱幸代さんがおりましたね。当時小倉かよこ と言いまして1学年上にいましたか・・・当時はおっとりした・・・静かな女の子で・・私はむしろ同学年の女の子に気がいってました・・・ ま・・・十朱さんは・・・お姉さんっていう感じでした。

 

そんな形で小学校6年までやってました。私の一念先輩で・・Kさんっていうのが・・・演劇うまい人で・・その人がいる間は、私はの後ろに隠れていればよかったんですが・・・その方が卒業してから・・・5年、6年生と、私が中心になって演劇部をやることになった時は、子供心に苦労した思い出があります。  当時の思い出としては四年までは女の先生でしたが 5年、6年生 演劇をやりながらも・・方向が変わっていくのは・・・5年生、6年生の時に、若い男子で気鋭のT 先生になってからですね。大変影響を受けた先生でありました。次回には・・・・中学時・・・地元の目黒の第7中学校時代のF先生などのお話をしたいと思っています。このお二人の男性教師に…思春期の大事な時代・・・いろいろと・・・・・教わりましたね!!  感謝です!!!

 

今日は、ロシアが・・・なんとウクライナのキエフに・・侵攻した日であります。非常に残念なことで・・・いよいよ日本もそういう意味では、中国と北朝鮮からの・・危機が迫っていると思います。

 

そのあたりの・・・民主主権独立国としての・・・専守防衛・攻撃ということについてはまた別の機会に、考えを述べたいと思います。 今日は…ここまでです。


今日のつぶやきは・・・昭和の小学生時代で~~す

2022年11月28日 14時12分48秒 | デッサン・雑感

そのあたりの・・・民主主権独立国としての・・・専守防衛・攻撃ということについてはまた別の機会に、考えを述べたいと思います。 今日は…ここまでです。


オジンのつぶやき 0

2022年09月26日 12時52分24秒 | デッサン・雑感
今日は1943年昭和18年から子供の頃23歳のあまり覚えてないうろ覚えも多いのですが当時を振り返ってみましょう

生まれた年の昭和18年は学徒出陣の年ですね。

少し早く生まれていればまぁ太平洋戦争に行って生きて帰れなかった可能性もあると思っています
当時昭和43年44年にはもう空襲が激化してましてアメリカ軍が連日氏と東京 B 29の爆撃が多かったと思います

昭和44年は東京空襲の影響で学童疎開なんかもあったようですが私はまだ乳飲み子でしたので今覚えているのは空襲警報が鳴るとまず自分のふくちゃん人形を抱えて母親のほうに防空頭巾これは綿入れだったと思いますが 頭そしてなんか暗いとこへ入るということをうっすらと覚えています

多分防空壕だったんだろうと思います

飛行機の襲来焼夷弾の雨あられというのはあまり直接的には記憶にはありません

もう一つ覚えているのはまあ疎開先がなかったんですが、多分昭和44年か18年か20年終戦の直前に田舎の町 多分親戚を訪ね歩いて 夜の寒い日の東北の方多分秋田県あたりと伊豆 祖母が伊豆韮山の出てきたから 多分伊豆半島の網代辺りを母親の背に送って歩いたのをとうっすらと覚えたりしています

当時の写真はあまりなくて誕生の時のまるまるとした赤ん坊の写真1枚だけが残っています

まあ2歳3歳まではだいたい今の実家の東京都目黒区の洗足の辺りで 女性家族ばかりで学生相手の下宿をやっていたようですが そこで生まれたと思っています 今日はここまでです
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オジンのつぶやき 1

2022年09月26日 12時46分06秒 | デッサン・雑感
今日は個人のつぶやきその1です。

1945年ポツダム宣言受諾 昭和20年8月でした.東京湾上のミズリー号の甲板で、当時の重光葵が日本の全権でポツダム宣言を受諾し、
お昼から昭和天皇の玉音放送があったことをなんかうっすらと覚えています。

私は昭和21年 4歳児ぐらいだったと思います。

翌年の昭和21年に日本国憲法が公布され 昭和22年に教育基本法が制定され、私が小学校6歳で入学したのは、朝鮮戦争が始まった昭和25年1950年だったと思います。


確かな記憶はあまりないんですが  やはり・・・あっちこっちを背中におぶさって焼け野原から、バラック、浮浪者が多くて、そういったところを歩き回ったような気がしています。  目黒駅には いつも 傷痍軍人が援助願いで 道端に座っている姿・・・・思い出します。

目黒の小学校で 地元の品川区に近い原町小学校っていうところしたが

今でも覚えているのは午前授業と午後授業の二部授業になっていて・・・
午前だけか午後だけで・・・・確か小学校1年はそんな形で通ったような気がしています。

そして私の記憶がだいぶはっきりしてくるのは・・・この後の小学2年生頃からではないかと思います。 担任は女の O先生でした。演劇を始めざるを得なかった・・・・好きか嫌いかは別にして、  急に代役指名で始。

次は小学校2、3年の演劇部からの話をしたいと思っています。

今日はここまでです


多摩川健の今日の 川崎競馬 予想  2022・7・4

2022年07月04日 11時38分57秒 | 競馬予想

久々の…川崎競馬・・・・予想!!

1R 馬単  8=4 裏表 2点

2R 馬単  11=1

3R 馬単  9=1

4R 馬単 二軸  12,7=2,5

   三連複 3連単  12=2,7=5

5R 馬単  11=12

6R 馬単  4=10

7R 馬単 二軸  2,12=10,4

   3連単 三連複 2=12,10=4

8R 馬単3=8

9R 馬単 4=1,6  3連単複 4=6=1

10R 馬単 4=1、6  

11R 馬単11=4,5 3連単複11=5=4

12R 馬単 10,11=1 10=1=11

 さあああああ‥‥どうなりますか!!

   

   

 

  

 

 

 

 


78年生きて・・・おじんおつぶやき

2022年02月21日 12時22分28秒 | 意見

つぶやき その2

  

今日は1943年昭和18年から 子供の頃2、3歳のあまり覚えてない・・うろ覚えも多いのですが・・当時を振り返ってみましょう

 

生まれた年の昭和18年は学徒出陣の年で・・・国際的には米 英 中がカイロ会談をやった時期に相当しています。

少し早く生まれていれば まぁ太平洋戦争に行って生きて帰れなかった可能性もあると思っています

 

 

 当時 昭和1943年にはもう日本各地への、 空襲が激化してまして・・・アメリカ軍が連日  東京にも B 29での爆撃が多かったと思います。

 

昭和19年は東京空襲の影響で学童疎開なんかもあったようですが・・・私はまだ乳飲み子でしたので・・今覚えているのはウーウーと長く尾を引く空襲警報が鳴ると・・まず自分のフクチャン人形を抱えて母親のほうに急ぎます・・防空頭巾・・・これは綿入れだったと思いますが・・頭にかぶり、そしてなんか暗いとこへ入るということを・・・・うっすらと覚えています。多分防空壕だったんだろうと思います・・まあそれ以外・・・・飛行機の襲来姿・・焼夷弾の雨あられというのはあまり直接的には記憶にはありません。二歳の頃ですからね。

 

 

もう一つ覚えているのは・・まあ疎開先がなかったんですが、多分昭和19年ころでしょうか・・・20年・・・終戦の直前に田舎の町・・多分親戚を訪ね歩いて疎開先探しと言うか・・・夜の寒い日の東北の方・・多分秋田県あたりと・・伊豆・・・祖母が伊豆韮山の出でしたから・・・伊豆半島の網代辺りを母親の背におぶさって歩いたのを・・・・とうっすらと覚えたりしています。

 

当時の写真はあまりなくて・・誕生の時のまるまるとした赤ん坊の写真1枚だけが残っています。2歳3歳まではだいたい今の実家の東京都目黒区の洗足の辺りで・・今の実家にちょっと近いところ・・・・女性家族ばかりで学生相手の下宿をやっていたようですが・・・・・そこで生まれたと思っています。

 

今日はここまでです


2020 多摩川 健の ダービー予想

2020年05月30日 16時31分45秒 | 競馬

六郷土手には まだコロナの風が吹いている。

「今日も あかねちゃん きっちり決めてるな!」伸治のおやっさんは 横目で・・ちらっと…ウインク

「バイオレットは私のいろよ! アジサイの季節だしね! 紫は枠にないから・・・仕方なしに 赤と青 混色で・・・・ 必ず…ダビーも  枠の 3-4は抑えるわよ」バイオレットのドレスにベージュウのスカーフ・・・・堀之内・・・インシャラー出勤前の茜ちゃんは レモンチューハイとこはだの刺身。

「こんな時期でも お風呂の客ああるんかい」タマガワ生活社の誠ちゃんは・・・ゲソに チューハイ

「三強ダービーかいな・・・・」「誠ちゃん 何年競馬やってるの! 一強に決まってるでしょう!」

松司馬電機独身寮の健夫ちゃんは・・・・冷静な口調で・・・アナゴ でビールあおってます。

「そうだな・・・・コントレイル  単勝買って…見てるレースだな・・・健さんそうでしょう!」

総菜や花丸の千鳥母さんは・・・・剣菱の冷で 冷ややっこ。

「ま 3連単しか 妙味はないかな」 健はぬる燗の八海山・・・・つまみの赤貝をうまそうに

口に放り込みます。

「 コントレイル 1強のの3連単だね!  5#12#3.11.13 でいいだろう。

 あとは遊びで・・・・  5#12#17の 3連単 三連複までかな」

「健さん じゃ 3連単 3点 各一万  5#12#17 単複で 2万 私の枠の3-4 1万

でおねがいしま~~~~~~~~す」

  茜ちゃんはピンクのガーターから 札束出して・・・・6万円「じゃああ・・行ってきま~~す」 

 

さあああああ…2020のダービーは・・・・・どうなりますか!!

 

コロナに負けないで!!!!! 皆様の健闘おいのりしていま~~~~~す。

 

          多摩川 健

 

 

 

 

 

 

 


ささやかに・・・・桜花賞予想・・・・ 多摩川 健

2020年04月10日 16時56分26秒 | 競馬

「コロナが毎日大変な時に…暖簾上げるわけにはいかねえやな・・・・」

六郷土手に春風が流れる・・・伸治のおっちゃんは・・・・ジントニック・・・ぐっとあおる。

堀之内に出勤まえの茜ちゃん 今日は ライトバイオレットのドレスに グレーの薄いブレザー姿

「こんな日にも・・お客さん来るのかい 茜ちゃん!」タマガワ生活者、川岸ブルーシート生活の誠ちゃんは

チューハイ・・・・ちびちびで・・・・・板わさつまみ

「馬鹿言ってなさい! 泡で…きれいに…ウイルスながしてあげるんだからね!!」

「健さん この頃おみかぎりねええ…もう…競馬はやめたの」総菜や花丸 千鳥母さんはこはだで…剣菱。

「いやあああ…このところ…無観客競馬で…気が乗らなくてね!」健はじっくり 八海山。

茜ちゃんが もう…トローンとした目つきで 「桜花賞 お願い…  健さ~ん」

 

 「武乗り代わりの・・・17番レシステンシアが 外枠から…先行で 逃げ切れるか・・・・

 5番 マルターズ   強烈差し9番 デアリングタクト   あとは 11番だね!

    馬単  17# 5,9,11

         5# 17.9,11    6点主力。

 

 

    3連単   17,5#17,5,9#17,9、4,13  15点  」

「私…乗った   じゃ  合計 21点ね…・ハイ  」茜ちゃんは 21000円おいて 急いで

店に向かいましたが・・・・・・さああああ 今日の コロナ感染が・・・こわ~い!

      

 

 


競馬小説 連載7 「スネイク・伊勢  浦河にて」

2020年02月06日 11時59分10秒 | 競馬

 スネイク・伊勢・浦河にて

 一週間後の土曜日、表(スネイク)は、午前中の調教を済ませると、池貝のおやじさんに休みをもらった。
「おやじさん、明日、一日休みをくれませんか」
「足の悪いあの仔は大丈夫かい。おまえがつきっきりで面倒見ているから、頼りすぎはわかっているけど、乗り運動にも人手が少なくてな:::」
「実は、あの仔を見てくれた浦河の獣医と約束したもんで」
「どんな約束だ」
「浦河の牧場のやり方を見たいし、一緒に廻ってくれると言うもんだから。それにあの仔   
 馬の今後の手当てや、扱い方も相談したいし」おやじさんは、それ以上無理は言わなかった。
「それじゃ行っておいで。月曜日の引き運動には間に合うんだな?」
「月曜の朝には間に合いますよ」

 

 新冠から車で南下して一時間だが、スネイクは浦河まで足を延ばしたことはなかった。有名な社大ファームや、ブライアンズタイムを内国産のG1や、G2勝ちの牝馬と交配し、ここ一、二年クラシックをいくつか勝っている、石井牧場の活躍は知っていた。
旧来型の牧場であれば、父親の代からの付き合いで、伊勢がこの牧場の内情を知っているのではないかと考えていた。
伊勢は診療所で待っていてくれた。


スネイクの興味を知ると「石井牧場は昔からの付き合いだし、このところ、ブライアンズタイム系と肌の合う牝馬が何頭かいますよ。中規模の牧場だが、頑張っている。知っていますよね」
「去年秋の秋草賞二千mの勝馬は、ここの生産馬だろう。近頃めずらしく、個人馬主が勝ったからね。マイルチャンピオンシップ、千六百m勝ちのミチカゲも近くの佐藤牧場だ。共にブライアンズタイムをつけているけど、コマカゲもミチカゲもやっぱり牝馬との相性がいいんだろうな」

 

 


競馬小説 連載6  「獣医・・・ 伊勢 三郎」

2020年01月23日 12時24分50秒 | 競馬

 

獣医 伊勢三郎


 伊勢三郎は、この日高、浦河の地で三代目にあたる獣医の長男であった。父は、浦河の牧場が主な得意先である。
日高の地は、大雪山の南西、北海道のほぼ中心の十勝岳を北限とし、狩勝峠から南北に一千Kmに亘り、襟裳岬まで連なる日高山脈によって、東西に分断され、東を十勝平野、西の太平洋沿岸は、日本でも有数の馬産地を形成している。紋別、新冠、静内、浦河は戦後、競馬の大衆化と共に、サラブレッドの生産で繁栄してきた。
 近年は外国生産で、日本育成の外国産馬が大活躍で、強い内国産馬の生産を目指す中小牧場の努力にかかわらず、当歳時に約束を交わす庭先取引が少なくなり、内国生産馬は売れ残るという状況であった。優秀な牝馬を保有する大牧場や、共同経営方式の大型牧場に、中小牧場が圧迫されるという状態が続いていた。

 三郎は、父を継がねばならないという思いから、札幌の獣医大学を出て、もう七年間、父と共に牧場回りをしていた。 父は浦河町議も勤めており、特に中小牧場の生産振興に尽力していた。
 三郎は、この世界でも大資本の支援を受けた生産牧場が、中小の牧場を吸収していく実態を見ていた。

 辺り一面が牧草でかなたまで晴れ渡り、大地に独特の草の香りがただよう夏の終り、三郎は新冠の池貝牧場へ当歳馬の往診に出かけた。球節に腫れが大きく、立っているのも痛々しい牝馬だ。
打撲のようだった。シップと化膿止めの注射で様子を見ることにした。立ち会いの男は心配そうに、当歳馬に付き添っている。
三郎はその男の、角ばった顔と糸を引くような細い眼に、内心たじろいた。
「打撲だけと思うけど、大丈夫かな?」
「心配いらないと思いますよ」三郎は慎重に答えた。
「伊勢さんは、ここのお生まれですか」
「ええ、父が浦河で牧場中心に診察しています」
男の目に、三郎は何ともいえない悪寒を感じた。
「僕は表といいます。この牧場にきてまだ五年ですが、馬の世話は性に合っているんですよ。じゃあ、伊勢さんはこの牧場以外のことも、良く御存知ですね」
スネイクは同年代の気安さを装った。
「浦河が中心ですから、新冠の方はあまり来ません。それに札幌の大学を出て、私もこの仕事を始めてまだ七年ほどです」スネイクは同年代の気安さを装った。
「浦河の牧場のやり方も知りたいし、一度そちらへ伺っていいでしょうか。今まで機会がないもんですから、浦河の方はよく知らないんですよ」
伊勢は、この細眼の男から、言葉とは別のシグナルを受け取った。ただの牧場回りじゃなさそうだ。この男は何かを企んでいる。
伊勢は何ともいえない不安を嗅ぎ取った。
スネイクも、同世代の若い獣医伊勢に、暗い沈んだ雰囲気を感じ取っていた。自分の少しづつ形になりつつある計画に、この男を引き込んで見ようと思った。この土地と、馬の事には明かるそうだ。

 


 競馬小説   連載 5

2019年12月18日 11時56分30秒 | 競馬

  

       幸次…北海道


幸次には父の思い出というものがほとんど無かった。

突然蒸発した父を捜したり、逢いたいという気持ちも起こらなかった。父のいない小諸の作り酒屋で、懸命に働いた。小柄で気丈な母と、出来のいい兄貴の下で育った自分を不幸だと考えたことはなかった。しかし、自分はいつまでもこの家には居られない。

次男が跡取りとは別に、なにがしかの処遇を受けて別所帯や、分家となるということでなく、早い時期に家を出て、自立したいという思いだ。次男の自分に、父の血が強く流れているのかもしれない。母からは、よく聞かされていた。

「あの人は父親になれない男だった。仕方が無い、そういう人と一緒になったんだから」

色盲や音痴のように、父は生まれながらに父親になる遺伝子が欠如していた。自分も同じことになりそうだ。

 高校卒業と同時に北海道へ渡った。

 全共闘の闘志が都会を離れ、小諸で趣味の陶芸家として、母と出会った。父と同様で、人との接触の少ない大自然を求め、そんな仕事を捜した。

母や兄の言う「変な人」の血が自分に流れていることを孝次は自覚せざるをえなかった。

母と兄は丸顔で柔和な目鼻立ちである。孝次は頬骨の張った角顔で、細く水平に見据える眼は、友達からも気味悪がられ、いつの間にかスネイクと渾名されていた。写真で見た蒸発した父とそっくりである。その容貌こそが、孝次にはドス黒い大きなシコリになっていた。

 北海道では函館、札幌と二年間、飲食店の下働きやバーテンをやり、三年目の梅雨明けに、客から紹介された日高、新冠の池貝牧場を訪れた。

 サラブレッドの生産と、育成の仕事には興味があった。大自然の中での馬の世話というのが孝次の性に合ってもいた。

 ようやく自分の居場所を見つけたという気がした。 

 

           幸次・・計画  

 束の間の賭け心と快楽を求める業種というものがある。

ほどほどの成長売上を示した競馬、競輪、競艇も、今回の長いバブル不況では苦戦している。

それでも、日本中央競馬会(JRA)は、ビッグレース(G1やG2)のない、土・日曜日で、全十二レース一日百五十億円から二百五十億円の売上を計上している安定した公認賭博である。後半のメイン三レースで、およそ、その半分の売上を占める。

更に、格の高い(G1)レースは、場外馬券売場を含めた全国発売ということもあって、ダービーで五百億円程度、昨年の皐月賞で四百億円の売上を上げている。

 

 JRAは、約七五%を的中者に払い戻している。

残りの二五%が、あらゆる諸経費で、その中には、施設やシステムの開発、開催に係る費用から、馬主・騎手・厩務員等への賞金、競走馬の生産育成援助や、馬に関する研究、調教の為のトレーニングセンターの運営、騎手の育成、地方競馬や海外との交流等、その運営は専門性の高い、多岐の分野に亘っている。

 

 ファンの、勝馬に賭けるという行為は、人間の賭への欲求そのものだが、公正な運営を信頼して賭けるという側面もあるだろう。国が指導する賭屋であるから、公正さと、透明性も求められている。

 日本競馬のルーツは、明治以降の軍馬改良という側面が強く、「競馬法」「地方競馬法」により、諸外国の第三セクター的な「ジョッキイクラブ運営」に比較し、国による規制色の強いことが、特徴となっている。

 表 孝次(通称スネイク)は、その点を考慮していた。

計画は、日本で育成されたサラブレッドが、海外進出するタイミングを狙う。思い切った行動がとれるからだ。

海外進出で、相当の評価を受けるサラブレッドというものは、そうザラにいるものではない。まして数年がかりで狙い、仕組んだ計画でも、成功するという保証は無い。

〈気の長い冒険〉を共有出来るメンバー捜しも、難しい課題となりそうだ。

 更に難しいのは、サラブレッドの神経質な性格を利用する事だ。馬の固体差やメンタル面の研究も必要だ。

スネイクは、調教助手もしていたから、ある程度サラブレッドそのものについて、[個体差]特にメンタル面でのそれが大きい事を知っていた。この分野のエキスパートが必要だ。

 更に、海外の実行グループの人選も、課題だ。

試して見る回数を二・三回程度として、日本と海外でかなり自由に活動出来るメンバーが必要であった。

計画の発端となる日本では、将来性のあるサラブレッドを選択し、育成時代に、その馬に仕掛けの出来る人間が必要だった。

ターゲットとした馬へ、短時間で大量の馬券購入を、着実に実行出来る事務能力にもたけた人間。どうしても二~三人は必要になりそうだ。

 一回目のトライアルで、二千万円相当の馬券購入を仕掛け、五億円程度の回収を狙いたい。成功すれば、国を変えて第二回目のトライを行う。三回目が勝負で完結だ。

総収入は二十~三十億円がターゲットだ。

四年がかりとしてメンバー四人で、一人五億から七億円だ。一人年間一億円以上の収入だ。

〈持続しつつ実行する計画〉は、こんな所だとスネイクは思い描いていた。

 

 

 

 


競馬小説 連載4 「出会い・・・香港」

2019年12月02日 11時19分03秒 | 競馬

出会い・・・・香港

 

 スネイクは、生暖かい香港特有の、澱んだカビ臭い風をゆっくり吸いながら、北京道を横切ってスターフェリーターミナルの方向に向かった。

今度の計画で、高垣三郎、鄭調教師と中環(セントラル)の中華料理店で、八時に待ち合わせていた。

ちょうど尖沙咀の交差点を渡ろうとした時、観光客らしい日本人女性の声に振り返った。

 「ワア!危ないじゃない! 急に押して… アアッ、 ストップ。何するんですか!」

ーーしかし、遅かったーー

香港人の押し屋と、もう一人の若いTシャツの男が、ショルダーバッグをひったくると、赤信号を突っ切って、オーシャンターミナルの方向に、飛ぶように走り去った。

「大丈夫ですか。背中をひどく突かれたようでしたが」

花柄ワンピースの女は、走り去った男を追うのをあきらめた。振り返り、男を見た。

細い不気味な眼だ。動転した眼は警戒している。

「ええ、でもバッグに貴重品がなかったから。少しお金は入っていたけど、パスポートと航空券はホテルに置いて来たし……カードは別に持っているから」

パニックにもならず、落ち着いて話す女性にスネイクは興味を感じた。

やや大柄で、すっきりした細顔の女からは、シャンプーの香りがした。

「日本からでしょう。いつお帰りですか」

「一ケ月のフリーチケットで来て、こちらに仕事がないか捜しているんだけど……来週には帰るつもり」

依然警戒しながら、冨士子はスネイクを改めて見た。

蛇のような眼だけでなく、何か得体の知れない雰囲気を感じた。

「パスポートとチケットが残って不幸中の幸でしたね。

今日は早めに帰った方がいいでしょう、お役に立てませんでしたが気をつけて」スネイクは交差点を渡りはじめた。

「あのう、よろしかったら……」

 ーーなぜ自分から声をかけたのかしらーー

偶然の出会いとはいえ、何かこの男に惹かれる所があった。

 

 彼女には単刀直入に切り出す方が良さそうだ。

計画全体を、明確に伝える。多分彼女は聞き入れる。

スネイクは冨士子に対する直感にかけた。

「面白い計画があってね。急にこんな話しで戸惑うかも知れないけど、ゾクゾクする金儲け計画なんだ。どう、興味ある?」冨士子はフッと目を上げた。

飲茶の店は、こういう話がやりやすい。友達連れや、会社仲間、子供を連れた家族が、ゴチャゴチャ話す喧騒は、警戒という雰囲気にはほど遠い。

蝦焼賣(エビシューマイ)を食べる手を止めて、冨士子はスネイクを見た。切れ長の目の奥に凄味が駆けた。この女とは共有出来る。スネイクは、直感が当たりそうだなと感じた。今は、一気に話すにかぎる。

「キイワードは馬。舞台は競馬。時間は三、四年がかり。日本と海外で同時進行させたい。時間と手間の掛かる冒険だ。見返りは全体で二十億円以上。仲間四人として、一人五億円強と言うところかな」冨士子はスネイクから目を反らさずに聞いている。

スネイクも冷静に話し、冨士子の様子を観察した。迷っている。

冨士子はゆっくり烏龍茶に手をのばしながらつぶやいた。曖昧なまなざしではない。

「でも、それって犯罪でしょ」

スネイクが冒険といった内容を見抜いている。当然だ。

「そういうこと。細心の注意と分担が重要で、徐々に進行させて、目標に到達したら、そこで完了。解散ということさ。計画の各々を分担する仲間は、時間と忍耐が必要で、冒険と言ったのは、そういう意味さ。鋭利であるよりも、時間の中で自分をおし通せるメンバーを必要としているんだ」

今度は冨士子が真剣に質問した。

「うまく行くと思う? 失敗の確率と、その時の保証は考えてあるの」なかなか慎重だ。

「君は、競馬のルールを知っているかい」

「知らないわ。ルールって?」

「順番。オーダー順ということさ」

「それがどうしたの?」

「強い馬が順番に勝利して、クラスを上げて王者が決まる。どこの国の競馬も、そうなっている」

「だから?」

「それを利用するのさ。下のクラスから勝った馬が一流なら、計画通りに使ってくる。時間とタイミングが読めるんだ。これが一番重要な事だ。順番に試して様子を見る。計画の未熟な点を修正していく。そして王者のクラスで最後の勝負だ」

「はじめのクラスで失敗したらどうするの?」

「致命的欠陥のある計画は解散。そのリスクはメンバー均等以上にリーダーが負う」

スネイクは、肝心な所だと感じながら、タバコを吸いたいが、数分我慢しようと思った。

「修正出来るミスなら、続行するってことさ」

「ストップ、ゴーは、誰が決めるの?」

「それはリーダーだ」

「あなたなの……」

「計画全体は俺が考えている」話しは峠を越えたと感じた。マールボーロライトを一本口にして、火を付けた。

 一応話した、後は富士子の決断だ。

二人用テーブルで深く煙を吐いた。

回りのさざめきが一挙に耳に入って来た。

冨士子はずっと遠くの、家族連れの騒がしさを見ていた。

迷い考えているな。

スネイクは黙って待つことにした。

数分がすぎただろうか。

「面白そうね。冒険して見ようかしら」

特徴のあるデザインの、チソットの時計に手をやる。大きく開いた胸元から魅惑的な白い谷が見えた。

上体を乗り出して、真剣な口調だ。

「それで、何からどうやるの?私はどんな役割を分担するのかしら」「君には日本で三、四年がかりの仕事をしてもらう」

スネイクは、計画の概要と、スケジュールを示した。

富士子には先ずは競馬を勉強してもらう。

全体の構想は見えているが、細部の詰めと、信頼出来る仲間は、これから補強することも、素直に話した。

「ずいぶん時間がかかるのね。成功の保証もないけど、自分を試すいい機会かも知れないわ。このまま年を取りたくないし……」中国復帰一年前の香港九龍の五月はまだ過ごしやすかった。

 

 

 

 


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