多摩川 健・・リタイアシニアのつれずれ・・時代小説

最近は元禄時代「寺子屋師匠 菊池三之丞 事件控え」全30話書いてます。週2-3回更新で順次 公開予定。

競馬小説 連載3 「馬主 曽我」

2019年11月26日 16時42分07秒 | 競馬


馬主 曽我



 この事件の九ケ月前、曽我は石井牧場を訪ねていた。

 彼は、石井牧場の繁殖牝馬と、その配合を信頼していた。新冠でも小規模牧場だが、良い母親に恵まれ、ここ十年近くのめぼしい仔は、ほとんど所有していた。

今度のメティウスの´96はどこか違っていた。

石井の息子から、メティウスと、ブライアンズタイムの配合に期待してほしいと聞かされ、四月十二日の誕生の翌月には、新冠まで確かめに来ていた。

 

 誕生から一ケ月の仔馬というのは、本当に愛らしい生き物だ。

母メティウスの足下を離れようとしないで、小走りにじゃれ付いている。何回も見ているのだが、どの仔馬も本当に可愛い。

この仔馬だけが特別というわけでもない。

彼等は皆同じように無邪気で、やがて来るサラブレッドの厳しい戦いの時間とは別な、離乳までの六ケ月を過ごしている。 母との一日中の触れ合いは、平和な時間の流れで、この間に骨格や訓練前の気性といったものが決まって来る。

 新冠の五月上旬は、さわやかで冬の厳しさを忘れさせてくれる。本州ではとっくに終わった桜が満開で、メティウスとその仔馬が、桜一面の牧場で、ゆっくり走る姿は、曽我の心身を洗ってくれる。 「いいもんでしょう。馬主さんを迎えるこの時期、一番希望が湧きますよ。先行きどうなるか、この仔のしまいがどうなるのか、それはわからないけど。生まれてすぐの、この親仔を見ると我々の不平不満もぶっ飛ぶ気がするんですよ」長男の康太郎が親仔を目で追いながら言った。

「同感だよ。やがてこの仔馬の心配や無事にレースで廻って来てくれればいい、故障はしないでくれ。と、思うのもこういう場所からのつながりなんだな」

「今年のメティウスの仔は、骨格がしっかりしていますよ。それに、やんちゃ坊主の気質というか、ちょっと棹性が強そうなのは、ブライアンタイム譲りでしょうかね」

「そこそこには走るかもしれないな」

「順調に行ったら、美哺の村田さんの所はどうでしょうかね」

「おいおい、もう俺が馬主ってことかね」

「だって、その気になっているんでしょう」

「うーん……。まあ、そういうところかな」

「じゃ、決まりですね。セリには出しませんから」

「いやあ、いつ来ても、見て勧められる仔馬と言うのは、断りにくいもんだな」

「私も、この仔は、曽我さんに是非と思っていましたから」

「君にはかなわんよ」二人は笑った。

「所で、弟さんは来るかい。去年は随分涙を飲んだな」

「康雄もデビューして八年ですからね。最初の勢いはともかく、主戦の本田さんが何やかやと世話を焼いてくれていますよ。去年夏の落馬で、回復に手間取りましたがね。ここ二~三年で、本田さんや、テキ(調教師)も康雄を主戦にしたいようですし……頑張りどころですね。先週顔を見せたんですよ」

「今年は、山形さんの新馬で、結構走りそうなのがいるから、康雄君にも出番が廻って来るだろうな」

「私もそう思って、頑張れよ。と、励ましました」

「康雄君はどちらかというと、逃げ馬をなだめて、着に持ち込むのが上手いから、新馬戦はいいと思うよ」

「もう、同期の連中には、ダービーを勝った武井や、柴田勝己、蛯川もいますし、頑張りどころですね」

 

 メティウスの仔を、また持つという事に、曽我はなんとも言えぬ楽しみを感じ始めていた。馬主は経済的にも大変で、心配も多いが、持ち馬と一緒に、何年か時間を共有しているという充実感が、一層大きい事を知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


競馬小説連載 2 [INJYUSTICE」 多摩川 健

2019年11月04日 10時59分37秒 | 競馬

    石井牧場

 

石井はあまりの惨たらしいメティウスの姿に、息が止まり腹の奥から嘔吐した。涙さえ出ない、悲しい光景だ。

 

サチカゲが、恐怖で立ちすくむ姿を見て、口の中の苦い汁を吐き飛ばし、首を強く抱いてやった。

 

震えの中から、サチカゲの恐怖が伝わる。やがて、ゆっくりと首を石井の方に向けた。見返してやるにはしのびない。深い悲しみの瞳を石井は忘れる事は出来ない。

 

  牧場でも一番優秀な牝馬、メティウスに、ブライアンズタイムをかけ、去年四月の誕生から、ずっと石井が世話してきた。十月に離乳が順調に終了してからも、五頭世話する中で、このブライアンズタイム '96にはとりわけ、将来性を直感していた。

 

「サチカゲ」と呼んで、当歳時から眼をかけていた。

 

曽我も当然自分が引き取る馬と考えていた。

 

 曽我の夢は、ここ五年のクラシック制覇で、国際レースで勝てる馬を育成時から捜し、国際グレードレースで勝利する事だった。

 

メティウスの複雑骨折は、手の施しようがなく、次の日殺処分となった。

 

 母馬が死んでからのサチカゲは、すっかり沈み込み、やんちゃな活発さが消えた。

 

朝運動でも他の親子の後ろを、やっとついて行く姿が痛々しかった。石井は、親父に相談して、しばらく夜はサチカゲの馬房に泊まりたいと言った。

 

「おまえの気持ちはわかるが、あの仔もこれを越えんといかんのだ。一人前の競走馬は、遅かれ早かれ母馬と離れ、本格育成に入るわけだから」

 

「それはわかっているけど、サチカゲにとっては異常な経験だ。走ることへの恐怖を引きずっている。何とかしてやらんと」

 

「毎日話しかけ、励ましてやる事だ。一流の血統だし、ブライアンタイムズは気丈な血統だよ。」

 

石井は十日間程、馬房に泊まり、毎夜三十分程話しかけ、励まし続けた。

 

 

 

 

 

 


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