僕は名刺に楽書、空間プロデュース、看板制作、名刺制作などと肩書きに書いている。
そして、最近師匠に言われた事。
「空さんは、その肩書きにプロは無いだろ。」凄いショックであり本当の事でした。
僕は、そうなんです、この名刺を作った時僕は背伸びをしたかった。と言うより虚勢を張ったのです。
と答えた。その時の言葉、会話がほとんどこのワンフレーズで止まってしまった。
僕は、35年の人生の中で何一つやり遂げた事は無い気がする。
小さい頃から変わった性格で周りの親から「あの子と遊ぶのは考えなさい」と目の前で聞こえる様に
言われることや、なぜか「おまえはおもしろいかわいい」と可愛がられるそんな両極端に言われ見られて来た。
中学からバイクに憧れ乗る事や直す事が好きだった。でも独学には限界があり壊すばかりで
母親のバイクを団地の3階の自宅の自分の部屋のベランダまで運び込みバラバラにして直せなくなり
何となく形にして戻しておいた。
父親のバイクはどこまでマフラーの抵抗をなくすとこのバイクは早くなるのだろうと思い
マフラーを取り替えてみた。もちろんその違うマフラーは隣にあったバイクから拝借した。
親父は怖かったのでもちろん後で元にもどしました。
そんな怖い物なしの中学時代。親友(悪友)の兄貴がやはり独学でバイクの整備を覚え国家試験を
独学でパスしてしまう人に出逢い、夏休みなんかは寝ずに教わった。
おかげでバイクやの社長に見初められ就職した。
そこでも寝ずに先輩のモトクロス(レース用)を整備させてもらった。
まだ、プロとアマの差はそんなに感じる事は無かった。でも特殊工具やコツ原理は
教わっていた気がする。
十代最後の方から二十歳くらいに板金屋で働いていた、何となく自分は職人が合っているのだろうと
かってに思っていた。そんな時に親方から「お前は職人にはなれない向いていない、商人になれ」と言われ
少し泣きそうになったが、なぜかすぐふっ切れた。早かった。多分生きようと思う事が
先に来ていたんだと思う。
朝が遅くて女の子と話が出来る洋服やに行こう!あっさり決めた。
もう、21歳ぐらいになっていた。
指導者が良かったのだろう。厳しい女性だった。わがままで言葉が優しいようできつい言葉だった。
でも明るく、カリスマ性のある人だった。元アイドルだったのも分かる気がした。
おかげさまで半年で主任になり売り上げはセール時で1千万通常で500から600万は売っていた。
1年で店長、そこからがまた仕事の地獄だった。
初めてだったと思う、仕事でこんなに考え苦労したのは。でも僕はキャリアもなく店長になってしまったので
年間のスケジュールも先も見えてなかったただひたすら、その日の売り上げの為に懸命になった。
そして、肺炎で倒れ店はボロボロになった。
そんなこんなで25歳から居酒屋への道に入った。
まだ僕は安易に飯が食える料理がなんとなく好きだと言うだけで、茨城の土浦の一番人気の高い
居酒屋に就職した。
そこでは、職人はいらない、アイデアと気力根性が大事という所だった。
また僕は水を得た魚の様に基本を無視してアイデアに没頭した。
そして親方に怒鳴られる日々が続いた。約5年基本の大切さ、プロとは?
そんな課題を無視しつつガムシャラに働きついに天狗になった。
30歳で色んな居酒屋を廻り、立て直しやメニューの見直しという小手先の仕事しつつ
そんな事をしているうちに自律神経失調症になり自分を見失い
今の文字詩の確立という流れがあった。
そこで、夜の商売ではなく昼間働こうと思い、リサイクル屋で働いた。
半年足らずで店長になり引き抜きで、居酒屋を立ち上げてしまった。
ほとんど魔が差したと言う感じだったけど。
1年ぐらいで肺炎で店は休業オーナーと折り合いが合わず・・・
僕は、そんな時茨城のある人と出会い作家としての道を選び東京を目指した。
物凄く安易な人間だ!
でもなぜか、生きていける。
そんなこんなで僕はやり遂げている事が無い一貫していることがない。
だからプロにはなれないのか?アイデアでは飯は食えないのか?
どこかで僕は人を信用していないのか?受け入れていないのか?
自分にマネジメント力が乏しいのは承知している。だからどうするのか?
ある人が言っていた、人に利用される人間は利用する価値がある。
だから、人が寄って来る人間になる事だと
僕はどっちなんだろう。利用されるほど金も地位も名声も無い。
プロにもなっていない中途半端で稼ぐ糧が見えていない。
でも、組織は苦手だ。
本当に勝手なわがままな自分だ。
だから、自分の事は好きになれない。早死にもしたくない。
こまった。
そして、最近師匠に言われた事。
「空さんは、その肩書きにプロは無いだろ。」凄いショックであり本当の事でした。
僕は、そうなんです、この名刺を作った時僕は背伸びをしたかった。と言うより虚勢を張ったのです。
と答えた。その時の言葉、会話がほとんどこのワンフレーズで止まってしまった。
僕は、35年の人生の中で何一つやり遂げた事は無い気がする。
小さい頃から変わった性格で周りの親から「あの子と遊ぶのは考えなさい」と目の前で聞こえる様に
言われることや、なぜか「おまえはおもしろいかわいい」と可愛がられるそんな両極端に言われ見られて来た。
中学からバイクに憧れ乗る事や直す事が好きだった。でも独学には限界があり壊すばかりで
母親のバイクを団地の3階の自宅の自分の部屋のベランダまで運び込みバラバラにして直せなくなり
何となく形にして戻しておいた。
父親のバイクはどこまでマフラーの抵抗をなくすとこのバイクは早くなるのだろうと思い
マフラーを取り替えてみた。もちろんその違うマフラーは隣にあったバイクから拝借した。
親父は怖かったのでもちろん後で元にもどしました。
そんな怖い物なしの中学時代。親友(悪友)の兄貴がやはり独学でバイクの整備を覚え国家試験を
独学でパスしてしまう人に出逢い、夏休みなんかは寝ずに教わった。
おかげでバイクやの社長に見初められ就職した。
そこでも寝ずに先輩のモトクロス(レース用)を整備させてもらった。
まだ、プロとアマの差はそんなに感じる事は無かった。でも特殊工具やコツ原理は
教わっていた気がする。
十代最後の方から二十歳くらいに板金屋で働いていた、何となく自分は職人が合っているのだろうと
かってに思っていた。そんな時に親方から「お前は職人にはなれない向いていない、商人になれ」と言われ
少し泣きそうになったが、なぜかすぐふっ切れた。早かった。多分生きようと思う事が
先に来ていたんだと思う。
朝が遅くて女の子と話が出来る洋服やに行こう!あっさり決めた。
もう、21歳ぐらいになっていた。
指導者が良かったのだろう。厳しい女性だった。わがままで言葉が優しいようできつい言葉だった。
でも明るく、カリスマ性のある人だった。元アイドルだったのも分かる気がした。
おかげさまで半年で主任になり売り上げはセール時で1千万通常で500から600万は売っていた。
1年で店長、そこからがまた仕事の地獄だった。
初めてだったと思う、仕事でこんなに考え苦労したのは。でも僕はキャリアもなく店長になってしまったので
年間のスケジュールも先も見えてなかったただひたすら、その日の売り上げの為に懸命になった。
そして、肺炎で倒れ店はボロボロになった。
そんなこんなで25歳から居酒屋への道に入った。
まだ僕は安易に飯が食える料理がなんとなく好きだと言うだけで、茨城の土浦の一番人気の高い
居酒屋に就職した。
そこでは、職人はいらない、アイデアと気力根性が大事という所だった。
また僕は水を得た魚の様に基本を無視してアイデアに没頭した。
そして親方に怒鳴られる日々が続いた。約5年基本の大切さ、プロとは?
そんな課題を無視しつつガムシャラに働きついに天狗になった。
30歳で色んな居酒屋を廻り、立て直しやメニューの見直しという小手先の仕事しつつ
そんな事をしているうちに自律神経失調症になり自分を見失い
今の文字詩の確立という流れがあった。
そこで、夜の商売ではなく昼間働こうと思い、リサイクル屋で働いた。
半年足らずで店長になり引き抜きで、居酒屋を立ち上げてしまった。
ほとんど魔が差したと言う感じだったけど。
1年ぐらいで肺炎で店は休業オーナーと折り合いが合わず・・・
僕は、そんな時茨城のある人と出会い作家としての道を選び東京を目指した。
物凄く安易な人間だ!
でもなぜか、生きていける。
そんなこんなで僕はやり遂げている事が無い一貫していることがない。
だからプロにはなれないのか?アイデアでは飯は食えないのか?
どこかで僕は人を信用していないのか?受け入れていないのか?
自分にマネジメント力が乏しいのは承知している。だからどうするのか?
ある人が言っていた、人に利用される人間は利用する価値がある。
だから、人が寄って来る人間になる事だと
僕はどっちなんだろう。利用されるほど金も地位も名声も無い。
プロにもなっていない中途半端で稼ぐ糧が見えていない。
でも、組織は苦手だ。
本当に勝手なわがままな自分だ。
だから、自分の事は好きになれない。早死にもしたくない。
こまった。
素人とプロ、素人とビジネスマンの境目いるとき、「さすが職人!」「商人魂がでてきたね!」などといわれると救われた気持ちになり、その先に進める。そういった言葉なのかなと思う今日この頃です。
今読んでそんな事、書いてたんだと思い出しました
今はおでん屋で奮闘中です
なぜかいつも良い人に囲まれて生きています
このまま、よりはあそこまで
そんな感じで生きていましょう