極楽とんぼ倶楽部

わたしの大好きなごはん(お米)、日本酒、美方郡香美町小代のことを語ります。

小代の地名(東垣村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
東垣村(ひがしがきむら) 現香美町小代区東垣

佐坊村の南東に位置する。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「ひかしかき」とみえ、当地には宗衛門殿などが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に「貫田、東垣村」とあり、北方の貫田村と合わせて高100石。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図では貫田村に含まれて高付けされていた。天保郷帳では高97石余。「七美郡誌稿」によれば当地は永正年中(1504-21)城山城主田公氏の一族山本主計信胤の知行所であったという。天正五年(1577)羽柴長秀(秀長)勢の但馬侵攻で田公綱典が城山城から退くと、当地の山本右兵衛慰房胤らは小代一揆を結んで羽柴勢と戦った。しかし同10年に甲州武田氏の遺臣今井外記兼則と水間掃部助の両人が小代谷に流れ来たり、今井氏は当村に、水間氏は鍛冶屋村に帰農したとの伝承がある。

小代の地名(佐坊村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
佐坊村(さぼうむら) 現香美町小代区佐坊

鍛冶屋村の南西に位置し、南東は東垣村。集落は標高460メートル前後の緩傾斜地に発達。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「さぼう」とみえ、当地には上田若狭殿ほか上田氏の一族が住している。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に「さほう かち屋」とみえ、鍛冶屋村と合わせて高150石。寛永16年(1639)の知高帳では150石、さらに別筆で鍛冶屋村50石がみえる。天保郷帳では高110石余。荒霊神社は大永年間(1521-28)に京都祇園社から分霊を勧請したと伝え(兵庫県神社誌)、天正10年(1582)・延宝7年(1679)・明治39年(1906)の社殿再建棟札を有する。口碑によると元和元年(1615)に大阪浪士の上田新右衛門政英が来住、帰農して当村を開拓したとされる(七美叢誌)。しかし前述のように上田氏は弘治年中にすでに当地に居を構えている。

小代の地名(鍛冶屋村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
鍛冶屋村(かじやむら) 現香美町小代区鍛冶屋

貫田村の南西にある。集落は標高400メートル前後の緩傾斜地に発達。南西は佐坊村、南は東垣村。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「かちや村五郎左衛門殿」などとみえる。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では「さはう、かち屋」とあり、佐坊村と合わせて高150石。寛永16年(1639)の知高帳には「かちや」とみえ、高50石。天保郷帳では高66石余。集落北西の久須部渓谷には高さ35メートルの吉(よし)滝(たき)(県指定天然記念物)かかかる。この滝の裏は洞窟となっており、善(よし)滝(たき)(吉滝)神社が鎮座する。同社は当地および東垣の氏神。その創建年代は不詳であるが、弘治年間に社殿を造営、宝永4年(1707)・天明2年(1782)・弘化3年(1846)に再建している(「兵庫県神社誌」など)。

小代の地名(貫田村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
貫田村(ぬきだむら) 現香美町小代区貫田

矢田川を挟んで平野村の対岸西方に位置し、北は忠宮村。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」には「ぬきた村 同田村殿 やと」とみえる。慶長6年(1601)山名豊国知行目録(池田家文書)には「貫田、東垣村」とあり、南方に位置する東垣村と合わせて高100石。寛永16年(1639)の知高帳、正(1644-48)頃成立の国絵図では当村高100石とあるが、この高は東垣村分を含んでいる。天保行帳では高99石余。八幡神社は久安3年(1147)に山城石清水八幡宮の分霊を勧請したと伝え(七美郡神社記)、天和(1683)・元禄13年(1700)・寛政7年(1795)・文化12年(1815)に社殿を再建している。当地東部に現香美町村岡区日蓮宗大運寺跡がある。同寺は延慶(1308-11)日範の開山といい、慶安元年(1648)に香美町村岡区に移ったという。(七美郡誌稿・美方町史)。
なお、「七美郡誌稿」によれば天文(1532-55)には足利将軍家に仕えた萱田源内光顕が、永禄年中(1558-70)には赤井氏の臣田尻主水清家が、慶長4年には山本氏の臣田村甚五郎がそれぞれ当村に流寓・移住し、以後3氏の子孫ともに繁栄したという。ただし田村氏は前掲にしかた日記に田村殿とみえており、弘治年中には当地居を構えていたと考えられる。

小代の地名(茅野村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
茅野村(かやのむら) 現香美町小代区茅野

平野村の南、矢田川の右岸にある。萱野とも書いた。当地で同川に注ぐ支流をさかのぼり、南東方の野間峠を越えて大笹村(現香美町村岡区)に下り、福岡村(現香美町村岡区)に至る山道が通じていた。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「かやの」とみえ、当地には「かや野」氏や大月氏の一族が住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)には「かやの村」とみえ、高100石。寛永16年(1639)の知高帳では茅野、正(1644-48)頃成立の国絵図では萱野とあり、ともに高100石。天保郷帳では高214石余。集落の南に中世の松ノ城跡がある。築城者などの詳細は不明であるが、戦国期には朝倉織部正が居城、天正5年(1577)の羽柴長秀(秀長)勢の但馬侵攻の際に落城したという。織部正はその後も同8年まで周辺で反抗を繰り返したとされる(七美郡誌稿)。荒霊神社は松ノ城主朝倉氏の崇敬社であったと伝え(同書)、明和7年(1770)・天明6年(1786)・文化元年(1804)・天保4年(1833)に社殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。


小代の地名(平野村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
平野村(ひらのむら) 現香美町小代区平野

実山村の南、矢田川の右岸に位置する。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」には「ひら野殿 やと」「ひらのの光明寺」などとある。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に村名がみえ、高80石余。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図でも同高で、天保郷帳では高120石余。熊野神社は承久年間(1219-22)田公氏の一族小代大膳が鎮守として勧請したと伝える(七美郡誌稿)。天正5年(1577)兵火にかかり、その後も再三火災に見舞われたが、天政9年(1826)・天保15年(1844)に本殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。かって当地にあった臨済宗景雲寺は、八木七郎入道見阿が父景雲の菩提を弔うために建立した寺院という。同寺は天正年中の兵乱で焼亡、寺跡には現在の高野山真言宗光明寺が移ったとされる。(七美郡誌稿)。光明寺は初め牛宝山福善寺と号し、貞和年中(1345-50)夢窓国師が野間谷村に開き、永和(
1375-79)には山城長福寺(現京都市右京区)月庵紹清も寓居したと伝える(七味叢誌・田公退城記)。天正5年兵火にかかり、のち小庵を建てて再興したが、寛永18年に時の住持が没して無住となり、天保2年(1645)板仕(いたし)野(の)村(現香美町村岡区)長福寺の応教を中興開山に迎えて、当地の景雲寺の寺跡に再興したとされる(「七美郡誌稿」など)。ただし前出のように「但馬国にしかた日記」にすでに「ひらのの光明寺」とみえるので、古くから当地にあった光明寺に、退転していた古刹福善寺の寺基を併せたとも考えられよう。

小代の地名(実山村)

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実山村(さねやまむら) 現香美町小代区実山

矢田川を挟んで忠宮村の対岸南東にあり、集落は同川の右岸に入る支谷の北側に達する。真山とも書き(寛永16年知高帳)、北東は野間谷村。弘治3年(1557)の「但馬にしかた日記」には「さ弥やま村」とみえる。また同日記には「いわ月村」とあるのは地内の岩月と思われ、同所に岩月籐左衛門殿・中村源兵衛殿などが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行帳(池田家文書)に村名がみえ、高130石。寛永16年(1639)の知高帳、正(1644-48)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では170石余。「七美叢誌」などによると元歴元年(1184)、源平の争乱で養父郡朝倉(現養父市)の居館を捨てた朝倉高清主従が当地に流れ来り、内倉(うちくら)と称する岩窟の洞中に潜居したと伝える。また集落の北に城山城の砦の一と考えられる中世の実山城跡がある。地内の荒(あら)御霊(みたま)神社は出雲国から勧請したと伝え、貞享4年(1687)に本殿を建立、寛政4年(1792)に再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。

小代の地名(忠宮村)

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忠宮村(ただのみやむら) 現香美町小代区忠宮

矢田川を挟んで野間谷村の対岸南部にある。集落は同川左岸沿いに発達し、北は大谷村。集落の南部に多他(ただ)神社が鎮座し、地名はこのことに由来するという。多田宮などとも書いた。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「たゝのミや 別当坊 やと」とみえ、当地には山本主計殿・同民部丞などが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では、「多田宮、野間谷村」とあり、野間谷村と合わせて高100石。寛永16年(1639)に地高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図ではともに野間谷村に含まれ高付されていたと思われる。天保郷帳では高58石余。多他神社は「延喜式」神名帳に載る七美郡の「多他(たたの)神社」に比定される。「七美叢誌」などによると貞観3年(861)の勧請と伝え、中世には小代(おじろ)庄の一宮として崇敬されたという。永正元年(1504)田公氏の一族山本新五郎房家は安芸の毛利元就に属して当地ほか神水・鍛冶屋・佐坊などの領主となり、同3年には千ヶ谷代官ならびに多他神社や秋岡の小代神社などの神職を命じられたとされる。以後山本氏が代々多他神社の神職を継承(七美郡誌稿)、前掲にしかた日記にみえる山本氏は一族とみられる。多他神社は寛文3年(1663)に本殿を建立したという。このときの棟札は残されていないが、その後の元文3年(1738)・文化12年(1815)・万延元年(1860)・明治3年(1870)の各年に本堂を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。

小代の地名(野間谷村) 

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
野間谷村(のまたにむら) 現香美町小代区野間谷

水間村の南、矢田川の右岸にある。南西は実(さね)山(やま)村、矢田川の対岸南西方は忠宮(ただのみや)村。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」には「ぬまたに寺家」とみえ、宝樹院・中之坊・妙蔵院・岡之坊・下之坊・善蔵坊など院・坊の記載がある。慶長(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)には「多田宮、野間谷村」とみえ、忠宮村と合わせてこう100石。寛永(1639)の知高帳や正保(1644-48)頃成立の国絵図では当村高100石とあるが、この高は忠宮村分を含んでいたと思われる。天保郷帳では高65石余。寺寺中に真言宗福善寺の寺跡がある。同寺は正保2年(1645)平野村に移転、光明(こうみょう)寺(現高野山真言宗)と改めた(七美群誌稿)。前述の「ぬまたに寺家」および院・坊は福善寺に関連するものと思われる。野間谷神社は創立の年代は不詳であるが、寛延4年(1751)・文政10年(1827)に本殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。


小代の地名(水間村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
水間村(みずまむら) 現香美町小代区水間

神場村の西にあり、北東は広井村。集落は矢田川の右岸に発達し、南東の山間に枝村の猪(いの)谷(たに)(猪之谷)がある。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「ミつま」とみえ、当地には地名を名字とする水間殿や「神主殿」などが住し、正徳庵があった。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では、「水間、かんば村」とあり、神場村と合わせて高120石。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図ではともに神場村の高に含まれて高付されていた。天保郷帳では高107石余。「七美郡誌稿」によると天文(1532-55)には城山城主田公氏の一族である田中大炊助が当地に住していた。大炊助は天正元年(1573)口大谷(現香美町村岡区)に移り、同年朝来郡竹田(現朝来市)から太田垣権兵衛信喬が来住して、田公氏に仕え給人となったという。信喬は羽柴秀吉勢の但馬侵攻に一揆を結んで抗したが、同9年には因幡に赴いて秀吉の武将前野長泰(長康)に仕え、文禄・慶長の役にも出兵したという。しかし豊臣秀次事件で前野氏が断絶すると信喬と弟の宗喬は流浪の身となり、神(かみ)坂(ざか)村(現香美町村岡区)に寓居、ほどなく死去したと伝える。
寛政9年(1797)猪谷に生まれた前田利左衛門(通称周助)は、周助蔓(優秀な特質を有する但馬牛の系統群を蔓牛という)の開祖をつくり上げたことで知られる。幼少時から牛好きであった利左衛門は長じて博労となり、弘化年間(1844-48)には領主山名氏の助力を得て村岡(現香美町村岡区)に但馬牛市場を開設、嘉永3年(1850)には田地・山林を処分するなど良牛の固定化に奔走、ついに生産面・遺伝面ともに秀でた周助蔓の創生に成功した。なお、昭和にはいると周助蔓の系統から熱田蔓が創出されている。(「周助蔓由来記」「美方町史」など)村の東字寺山(てらやま)に、田中氏が帰依したという宝泉寺の寺跡がある。稲田中(いなたなか)神社の創立年代は不詳であるが、慶長10年・天明8年(1788)・文久元年(1861)などに本殿を再建している。(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。

小代の地名(神場村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
神場村(かんばむら) 現香美町小代区神場

広井村南東の山間にあり、東は一二(ほい)峠を境に萩山(はぎやま)村(現香美町村岡区)、西に水間村。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」に「かんはむら」とみえる。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)に「水間・かんば村」とみえ、水間村と合わせて高120石。寛永16年(1639)の知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図ではともに当村高120石とあるが、この高は水間村分を含んでいた。天保郷帳では高60石余。地内八幡神社は創建年代不詳であるが、享保16年(1731)・寛政3年(1791)・嘉永3年(1850)明治3年(1870)の各年の再建棟札を有する(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。

小代の地名(広井村)

2009年06月13日 | 私のふるさとの情報
広井村(ひろいむら) 現香美町小代区広井

矢田川を挟んで石寺村の対岸南方にあり、集落は同川の右岸に発達。弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」には「ひろ井村」とみえ、当地には広井将監殿やその一族とみられる者たちが住していた。慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では、高120石。寛永16年(1639)知高帳、正保(1644-48)頃成立の国絵図でも同高。天保郷帳では高140石余。「七美郡誌稿」によれば、鎌倉時代当村は城山城主田公四郎左衛門尉景典が領有し、嘉禄年中(1225-27)頃に景典の舎弟広井次郎景親が当村下司となったという。以後天正5年(1557)まで広井氏が代々当村の地頭を勤め、将監典胤の代に山名氏の給人になったとされる。前掲にしかた日記にみえる広井将監および一族は景親の裔とみなされる。地内の荒霊神社は弘安年中(1278-88)広井氏による勧請と伝え、同氏の鎮守として祀られていたが、元禄年間(1688-1704)村持となったという。天保13年(1842)に焼亡、翌14年社殿を再建している(「兵庫県神社誌」「美方町史」)。