極楽とんぼ倶楽部

わたしの大好きなごはん(お米)、日本酒、美方郡香美町小代のことを語ります。

小代の地名(城山城)

2009年06月27日 | 私のふるさとの情報
城山城跡 現香美町小代区大谷・忠宮

大谷集落の南側、小代谷を北流する矢田川と久須部川に挟まれた山上に所在し、城域は東西約510メートル・南北約500メートル。標高396.7メートルに位置する主郭(東西約11メートル・南北約2メートル)を中心に、四方に派生する尾根に連郭式に曲輪を配置しており、主郭部と4つの砦から構成される。文献的には戦国末期まで存続が確認できるが、南北朝期から室町期の城郭遺構が良好に遺存している。城主居館は山裾の大谷字段(だん)の平(なる)に所在していたものと想定される。「七美郡誌稿」によると城主は初め朝倉氏、次いで八木氏・田公氏と替わったとするが、確証はない。同書によると天正5年(1577)10月、羽柴長秀(秀長)の但馬侵攻に際して藤堂高虎は小代一揆平定うぃ命じられ、小代勢は当城で高虎勢を迎え撃っている。城主田公綱典(秋庭)は因幡に逃行するが、太田垣信喬・広井典胤・小代大膳ら43名の一揆勢は当城に立籠り、栃谷城(現新温泉町浜坂)城主塩治左衛門慰の援軍50騎と合わせ、高虎軍120騎と戦い勝利した。その後小代勢は藤堂高虎の居所であった大屋谷(養父市大屋)を攻撃、蔵垣・横行・加保(現同上)などと戦っている。「藤堂記」には「残党共与横伊木申処之山中、構要書於掛小屋所致山籠」と記されており、小代勢が横行(横伊木)に陣城を構築して藤堂勢に対抗したことがうかがえる。天正4年2月の新屋田淵家由緒書(田淵家文書)には山本右兵衛慰・広井監物・坂本出雲守・上田若桜守・毛戸備後守・井上丹後守・西垣伊賀守など22名の地侍の名前がみえ、彼らが一揆の主力であった。さらに同年6月晦日付の吉川経家等連署書状(吉川家文書)には「小代表江者、杉原治右衛門慰罷越候」と記されていることから、一揆は同年まで続いていたものと判断される。






小代の地名(小代神社)

2009年06月27日 | 私のふるさとの情報
小代神社(おじろじんじゃ)

秋岡集落南方の小高い丘(大菩薩山)の上にあり、「延喜式」神名帳にみえる七美郡の「小代神社二座」に比定される。天照大神を祀り、近隣の人々からは「お伊勢さん」の通称でよばれる。草創の経緯などについては不詳であるが、弘安8年(1285)の但馬国太田文にみえる小代庄内の「仏神田二町小」を当社に関連するものとする説もある。本殿の手前にある小池の水を取り替えると必ず雨が降るとの伝承があり、旱魃のときは雨乞いの神事が行われた(兵庫県神社誌)。またこの池はモリアオガエルの生息地として知られる。社叢は杉の美林で、境内地を山麓から覆っている。元和5年(1619)・享保13年(1728)の本殿再建棟札が残る。

小代の地名(小代庄)

2009年06月27日 | 私のふるさとの情報
小代庄(おしろのしょう)

古代の七美郡小代郷(和名抄)の郷域に成立したと思われる庄園。庄域は矢田川の上流域、ほぼ現在の香美町小代区にあたると考えられる。皇室領(京都長講堂領)。建久2年(1191)10月の長講堂領目録(島田文書)に「莵東(束)・小代庄」とあり、莵束(うつか)庄と併記され、両庄で正月元旦に使用する御簫二間、御座2枚、殿上紫畳2枚、侍所垂布1反、砂6両、3月御八講砂5両、次雑仕装束1具(9月9日料)、月宛仕丁1人(7月料)、彼岸御布施布5反(8月料)御更衣畳1枚(小文、4月料)、門兵士3人(揚梅面門、6月30ヵ日)などが課役とされていた。弘安8年(1285)の但馬国太田文によると、領家は近衛殿(鷹司家の粗、近衛兼平)、下司は御家人の八木七郎入道見阿で、庄田は38町大、この内訳は仏神田2町小、人給6町、定田30町小であった。領家職は正応(1293)4月、鷹司兼平から子の基忠へ譲られている(「鷹司兼平譲状案」鷹司家文書)。応安4年(1371)3月6日の勘解由小路兼綱譲状土代(広橋家文書)に「鷹司家殿御恩地」の一つとして「小代庄内輔遠名」とみえ、「数台家礼跡」と記される。勘解由小路家は鷹司家の家司を勤めており、御恩として輔遠名(預所職か)を賜ったものと思われる。応永14年(1407)3月の宜陽門院領目録写(八代恒治氏旧蔵文書)に「莵束・小代庄」とあり、年貢は莵束庄と合わせて長講堂修二会の壇供を負担し、当庄の領家は鷹司殿(冬家)であった。なお年月日不詳の六条殿修理料支配状案(同文書)によれば、当庄は長講堂の穎倒した公卿座の西端一間の修理を負担している。
天正5年(1577)の羽柴長秀(秀長)の但馬侵攻の折、当地の在地領主たちは一揆を結んでこれに抵抗、藤堂高虎は長秀から小代一揆の平定を命じられている。(「七美郡誌稿」「藤堂記」など)ところで慶長6年(1601)の山名豊国知行目録(池田家文書)では大谷村、城山村など庄域諸村の高付はすべて10石単位でなされている(他の諸村は斗升合の位まで記されている。ただし射添村は1石単位の村が多い)。これは小代一揆と称された在地領主層の抵抗いよって検地(太閤検地)を実行することができなかったことが、その理由として考えられよう。