ぴょんぴょん :ドーベルマンそらとミニピンちょこワールド

企業顧問、相談役、コンサル(M&A、新規事業、新技術、投資)。ドーベルマンそらとミニピンちょこは虹の橋に。

男の背中(退職~転職に向けて)part1

2006年08月05日 14時57分31秒 | 転職、男の背中論
・・・・男の背中には歴史がある・・・・・

よく男の背中には歴史があるという。
自分の背中を見るのは、そんなに簡単ではないし、見る機会もない。
実際に風呂場で見る?・・・中年になると振り返るだけでも脂肪が邪魔をして全体を見ることは困難なのである。見れたとしても、絶対に美しいものではなく、こんなに汚れているのかとガッカリするのがオチである。

本当の意味で、
自分の背中を見るというのは、自分の人生を振り返るという意味である。しかし、これも簡単ではない。自分のことが一番見えないものである。しかも、普通に生きていれば、毎日が戦いで振り返る機会もない。実際に、自分の背中をみる機会は、大病をした時か転職をする時など、それほど多くはない。そんな大きな転機は一般人の男の人生の中で数回であろう。そんな自分の背中を見ると、汚れた背中が「頑張ったな」という「美しいもの」に見えたりもする。また、「どうでもいいことにこだわっていたな」という「小さなもの」に見えたりもする。その汚れの数は、あげれば無数の数で、その中身は言語という形では語れないのが現実である。もし、それらを言語で一言で表せ!と言われれば「愛」といいたい。何故なら、どんな汚れた人生でも、一つひとつは、何かを愛した上の結果であり、愛するが上の行動であると思うからである。
もう一つの結論は、「自分の背中ほど、見えにくいものはない。」何故なら、自分の歴史の中での自分の視点からしか見えないからである。どんなに輪廻転生を繰り返していたとしても、その歴史は地球や宇宙の視点から見ればちっぽけなものであり、一人の人生だけ捉えても、そこには無数の人との関わりから成り立っているからである。しかしながら、自分の背中を見る行為こそが、必要であると感じる。それは、節目で振り返ることでの、自らの浄化作用が必要であることと、人生の最後を迎えたときに、走馬灯のように人生を振り返り「良い人生だったな」と思えるためである。

しかしながら、人の背中を目で見ると、「この男の背中は、大きいな!」と思うことが度々ある。見た目が大きいのではなく「男の背中の大きさ」を感じることがある。これも言語で簡単に表せないが、「私から見た尊敬という心」なのであろう。

私が自分の背中を見る機会は、約14年前の大病1ヶ月入院、そして今回の転職であろう。大病のときは「後3時間遅かったら死亡という、大腸憩室炎穿孔による腹膜炎」だった。しかし、実は、毎日、会社の友人達がお見舞いに来てくれて、中々振り返りの機会とは言えるものではなかった。他の入院患者に迷惑なため、仲間たちが来る頃には病院の入り口で待っているような状態。今気づいたが、今回も日々送別会のため、同じ状態かも。
しかし、今回は、これが終わると迎える仲間達が居ないということが全く違うのであろう。

退職の挨拶にまわって、多くの会社の仲間たちから、多くの言霊をもらっている。
そのほとんどが、好意的であり、友情を感じる。もう辞めてしまえば、「関係ない人」であるのに。しかも、大きな仕事を全て途中で捨てるという「無責任」な形であるのに。
⇒この回答は、今、私の中では、まだ答えがない。(次週にしたい)

24年の仕事を辞めるエネルギーは、結構大きなものである。冷静にたえずいられない。
「辞めたくない」「辞めるべきでない」「辞めたい」「辞めることがベター」「辞めたら損」「辞めるのを誰か止めてくれ」「辞めないと死んじゃう」「辞めてよかったと思える時が来るはず」「辞めて逃げるのか」・・・・・・。これら全て本音である。
冷静に今振り返る
「人生のロードマップを書いたら、このままでは振り返って納得できる人生にはならない」・・・満足する「男の背中」という自伝を書けない。
「人生の品質、コスト、納期、技術、環境、安全(QCDTE)を感性(DNAを道具にした)でベンチマーキングしたら、間違いなく、今こそ、変化のタイミングである。」
・・・捨てるものも大きいが、今変らないと「男の背中」が泣く。
⇒そして、「全てが自然の成り行き=DNAのなせる技」、理論を超えた感性の中で決断したものである。

・・・・次週に続く・・・・
まだ、完全に退職の挨拶も終わっておらず、私の中でも終わらず、始まってもいない。
完成度の低い「男の背中」論であるため、つづきは、また次週に続く。







コメント (6)
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