土曜日の夜、NHKドキュメントで放送されていた
「3月11日のマーラー」という番組を観ました。
ダニエルハーディング指揮
新日フィルのマーラー交響曲第5番
去年の3月11日
地震が襲った日
東京のすみだホールで
開催予定だった演奏会が
主催者の決断で続行となった
一部始終の顛末を録画した内容を
元に作られた番組でした。
団員達は
演奏前に津波の映像を観てるんです。
『こんな時に演奏してよいのか?』
演奏者達のインタビューで
その迷いの声は切実に発せられ
親戚が岩手の大槌町の海辺に
住んでいるという演奏者もいて
その安否を気遣い
演奏どころではないといった様子。
ところが指揮者ハーディングの
いつもどおりの冷静なゲネプロの指示に
演奏者達は『やるしかない』といった
気持で一体となって本番が始まった。
1800人の満員で埋まる予定だった
客席はたった105人。
僕はなぜこの番組を
観ようかなと思ったのは
演奏曲が『マーラー交響曲第5番』
だったからです。
生から死。
そして幸福感に溢れている安息の地へ。
そんなテーマの作品で
マーラーの最高傑作です。
常に自らの死を意識していた
マーラーの不安定な
精神状態の中で作られたように
まさに楽章ごとで感情の浮き沈みが激しく
有名な指揮者の中には
このマーラーをいっさい演奏しない
マエストロもいました。
第1楽章は葬送行進曲で始まり
第3楽章では踊り踊るような
ちょっとハチャメチャで
ある意味自暴自棄のようにもとれる
狂騒が続き
有名な第4楽章のアダージェットには
天上にも昇る感覚を与えてくれる
安息のイメージで終始する。
そしてフィナーレでは
小躍りするような軽やかさで
いかにも健康的で駆け抜ける
さわやかさを金管楽器で
歌い上げます。
僕はその第一楽章のスタートの
トランペットのソロで
鳥肌が立ちました。
「うまくいった!すごい!」
コンマスの回想で
「僕はそこは何もすることはできない、
トランペットのソロ一本で決まる。」
「祈るような気持ちで『服部頼むぞー!!』
みたいな感じですね。」
このトランペット奏者の服部さんの
見事なソロで
一気の集中力で演奏しきった
新日本フィルの演奏者の方たち。
女性ビオラ奏者の言葉。
『音楽って意味があるんだ。』
『今日この曲を弾かなければいけない。』
当然マーラーの第5交響曲と
震災はなんら関連はありません。
でもこの交響曲から感じ取る
異様な生死の緊張感は
今後マーラーを聴くときに
保っていたい感性だと思います。
そして、僕はこの番組の核心の
ひとつを感じた場面があります。
観客の1人が後日、
あの日演奏会に行った事を悔いて
人に言えなかった
罪悪感に苛まれていたんです。
「大変な思いをしている人が
沢山いるのに
音楽を聴きに行っていたなんて…」
この言葉を聞いて
思ったのが
去年の震災が悲劇なのは
亡くなった人達の
悲しみとともに
運よく助かった人たちの
その助かってしまった自分の
苛まれた罪悪感に
今もというか
これからもずっと
襲われてしまうという悲劇。
津波に流されたあの人
それは家族や友人
同じ職場の仲間達
いつもすぐ側にいてあの日あの時まで
同じ日常を共に生きていた
いったい今生きてしまっている
自分との『差異』は何だったんだろう。
という
どうにも拭えなず
こみ上げる悲しみの感情。
僕はここに
『絆』という意味を見出すんです。
正直『前向き』な言葉では
捉えられない。
それは共感とか同情とか憐憫とか
そんな意味はいっさいない
ような気がするんです。
でも忘れてはならない
何かがあると思うんです。
それはもし今後
生きている間に同じような
自然災害に遭ったとき
死があるのか
生かされるのか。
そんな思いが
残るだけのような
気がしたんです。
「3月11日のマーラー」という番組を観ました。
ダニエルハーディング指揮
新日フィルのマーラー交響曲第5番
去年の3月11日
地震が襲った日
東京のすみだホールで
開催予定だった演奏会が
主催者の決断で続行となった
一部始終の顛末を録画した内容を
元に作られた番組でした。
団員達は
演奏前に津波の映像を観てるんです。
『こんな時に演奏してよいのか?』
演奏者達のインタビューで
その迷いの声は切実に発せられ
親戚が岩手の大槌町の海辺に
住んでいるという演奏者もいて
その安否を気遣い
演奏どころではないといった様子。
ところが指揮者ハーディングの
いつもどおりの冷静なゲネプロの指示に
演奏者達は『やるしかない』といった
気持で一体となって本番が始まった。
1800人の満員で埋まる予定だった
客席はたった105人。
僕はなぜこの番組を
観ようかなと思ったのは
演奏曲が『マーラー交響曲第5番』
だったからです。
生から死。
そして幸福感に溢れている安息の地へ。
そんなテーマの作品で
マーラーの最高傑作です。
常に自らの死を意識していた
マーラーの不安定な
精神状態の中で作られたように
まさに楽章ごとで感情の浮き沈みが激しく
有名な指揮者の中には
このマーラーをいっさい演奏しない
マエストロもいました。
第1楽章は葬送行進曲で始まり
第3楽章では踊り踊るような
ちょっとハチャメチャで
ある意味自暴自棄のようにもとれる
狂騒が続き
有名な第4楽章のアダージェットには
天上にも昇る感覚を与えてくれる
安息のイメージで終始する。
そしてフィナーレでは
小躍りするような軽やかさで
いかにも健康的で駆け抜ける
さわやかさを金管楽器で
歌い上げます。
僕はその第一楽章のスタートの
トランペットのソロで
鳥肌が立ちました。
「うまくいった!すごい!」
コンマスの回想で
「僕はそこは何もすることはできない、
トランペットのソロ一本で決まる。」
「祈るような気持ちで『服部頼むぞー!!』
みたいな感じですね。」
このトランペット奏者の服部さんの
見事なソロで
一気の集中力で演奏しきった
新日本フィルの演奏者の方たち。
女性ビオラ奏者の言葉。
『音楽って意味があるんだ。』
『今日この曲を弾かなければいけない。』
当然マーラーの第5交響曲と
震災はなんら関連はありません。
でもこの交響曲から感じ取る
異様な生死の緊張感は
今後マーラーを聴くときに
保っていたい感性だと思います。
そして、僕はこの番組の核心の
ひとつを感じた場面があります。
観客の1人が後日、
あの日演奏会に行った事を悔いて
人に言えなかった
罪悪感に苛まれていたんです。
「大変な思いをしている人が
沢山いるのに
音楽を聴きに行っていたなんて…」
この言葉を聞いて
思ったのが
去年の震災が悲劇なのは
亡くなった人達の
悲しみとともに
運よく助かった人たちの
その助かってしまった自分の
苛まれた罪悪感に
今もというか
これからもずっと
襲われてしまうという悲劇。
津波に流されたあの人
それは家族や友人
同じ職場の仲間達
いつもすぐ側にいてあの日あの時まで
同じ日常を共に生きていた
いったい今生きてしまっている
自分との『差異』は何だったんだろう。
という
どうにも拭えなず
こみ上げる悲しみの感情。
僕はここに
『絆』という意味を見出すんです。
正直『前向き』な言葉では
捉えられない。
それは共感とか同情とか憐憫とか
そんな意味はいっさいない
ような気がするんです。
でも忘れてはならない
何かがあると思うんです。
それはもし今後
生きている間に同じような
自然災害に遭ったとき
死があるのか
生かされるのか。
そんな思いが
残るだけのような
気がしたんです。