たまに自分の事で過去話をしますが、育てられた環境とか育った状況などで人格も性格も変わって来たと (^.^)そこに必ず心や感情が伴い、大人になって結婚して自身と向き合う事と出会ってから幼い時の心や思春期の時の心を回収してきたという話もしています。
いっぱいその時々の心を置き去りにしてきたなという事に気づいたからです (^.^)
何でそんな風に考えてたんやろうとか、
何でそんなこと思ってたんやろうとか、
何でそんなに嫌いやったんやろうとか、
何であんなことしたんやろうとか、
それらには必ず心が付いて纏ってました
諦めた事や悔しくても忘れようとした事や
悲しみや辛さを何処にぶつけて良いか分からなかった事や
恥かしかった事、寂しかった事、泣くに泣けなかった事
いっぱいありました。
その頃には何気に無茶に楽しむ事や笑う事で忘れて来ていましたが、
心は刷り込みや勘違いのまま封印されていたかも知れません。
それをようやく大人になってから経験値も増え、視野も広がり、大きな概念で見つめることが出来る様になって、そんな時の自分を理解してやろうとしました。
そう出来るようになったのも自身が成長した証だなと思うのです (^^;)
それは重々承知しているし、認めているのです。
そして多少の自信も持てるようになり自分を信じれるようになってきていると。
が、しかし……
何だか最近、身の回りでやたらと堂々としている友達を改めて感じ始め、
私の自信っていったい何だろうと感じるようになってきたんです (>_<)
自信が無いわけじゃないけど、
堂々としているって何だろうと (^^;)
子供を見ていても凄く感じていろいろ考える事があるのですが、
末娘は幼い頃から根拠のない自信に満ち溢れていたんです、笑えるんですが、そう見える出来事がいっぱいあって、用心しなさいよと注意していた私なんですが、
息子も自分だけの独自の世界観をもってぶれない不思議ちゃんです。
長女は良きも悪きも独自の個性を当然だと生きるという考えでめちゃ堂々としているんです。
やっぱその時代時代に生まれてくるに必然な意識やエネルギーをもって天から降りてくるんだなと思ってはいるんですが、
じゃあ私は、昭和に生まれ、途中昭和の古い意識を手離しこの子達に教わった新たな意識でどう生きていくんだろうとふと思う事があるんです。
古い意識を捨てて手放してきて、人生を哲学してきたという自信はあるのですが、堂々としているかなと…… ( 一一)
多分多少まだ心の奥で引きずっているんだろう古い常識を。
ましてや同年代とそれより上の人間たちは昭和の意識を手離せないでいる人達ばかりで、まだまだ社会が変わらない世の中が生きにくいという。
自由に生きようとしてもまだ周りの意見が気になる時もある、
多少だとしても気になる。
心の奥にそう思う気持ちがあるからだろう。
自由に生きて良い、悪い事も良い事も体験してみたら良い、体験型のアトラクションの世界なはずなのに、まだ堂々とするには心が怯んでしまうという。
何だか狭間な世界にいる、どこか別のパラレルワールドに同時共存している私。
まあ多分心の勝手な思い込みなんだけどねそれも (^^;)
友達も長年の幼友達もいれば、途中、学生の時の友達、社会に出たころの人たち、家族を持ってから、子育ての時、趣味から出会った人たち、地域で共に活動している人達、お客さんたち。
人生年表の流れの中にもそれぞれの私がいて、心があって、
先にも話した私の変化は私が一番知っていて、
その努力も自分が一知っていて、
何を言われようが自分が一番堂々としていて良いはずなのに、
昔の私が今の私を作っているし、昔のまま今の自分でもあるし、
ふとした瞬間弱かった自分を知って欲しくなるのって堂々としていないせいなのかと思ってしまう時がある。
今幸せなのも病気や痛みが無いのもある意味自身で努力したお陰やでと言いたくなるような
それを言いたくなる事が自分でどうなの?って思ったりするんです。
あんなにも堂々としている人がいるのに、
自分でやって来た事のお陰で今自分がいると分かってる自分なのになんで堂々とできないの?
昔はこうだったのよと弱音吐きたくなるのか頑張った努力の過程を認めて欲しいのか、そんな自分に嫌気刺している自分。
これもある意味自己承認欲求なのか?と。
今の自分だってそんなに大したことないのに、
そんなに強くないのに、そんなに粋がっている訳でもないのに、
そんな風に思っているのは、まだどこか自己肯定感低いの?って自問している自分が情けない。
私のまわりのその堂々としている人って、えっ?そんな事を堂々とするの?出来るの?っていう事をしたり言ったりするんです。
楽しけりゃ良いんじゃないかという精神を今育てている私はそれにも共感するんですが、ホントに良いの?って思ってしまう。
多分いいんです!
自分ですべて責任取れば!
そしてこの世は消える事ばかりだから!
体験したい時に体験すればその時の心は解消するんだから!!
何にでも覚悟して生きればたとえどんな事でも解消して回収して行かないといけない心があるのかなと。
それをしている人が堂々としているのかなと!!
そんな時に小心者の私は、昔小心者だったからという言い訳で体験を躊躇してしまう弱虫かも知れない!!
「堂々とする」ということは自分の哲学もぶれないし、覚悟もあるんだなと!
まあそれも得意不得意、その人の人生の中のカテゴリーでは様々やろうし、そう出来る事と出来ない事もあるんだろうし、弱いところもあるやろう。
実際、その堂々としている娘や友達も優しくて弱いところも涙もろいところも努力しているところもちゃんと知ってるし (^.^)
私が私の角度で「堂々とする」を哲学する時だったんだなと。
自分の人生を、またその自信をぶれないものとするにはです (^^;)
今だから言葉にしながら自分で分析し納得しているという感じです (*^^)v
納得したなら後は反復練習です !(^^)!