自分の心を観る…、感じる…、
という時代ですという話を常にしています。
昭和の時代は、親のため子供のため、人のためという善意の意識を身に着けるように育てられました。
親からも先生からも社会からもです。
私ももちろんそんな時代の真っただ中に育ちました。
本当に人のためや親のために生きてたか…、
それが出来てたかと言われれば分かりません (^^;)
自分でそんな事を評価する事すら教わっていない。
評価は他人様が決める事だ思い込まされてきましたから。
順位や点数や賃金などの様にです。
その…他人や社会が評価をする事が意識に植え付けられていると、
人と比べたり、人の事を気にしたり
そんな意識でいました。
人のためにとか、親のためにとか社会のために生きているかどうか分からないと言いましたが、
その代わりに無意識に…
良い人になろう、ちゃんとしよう、真面目でいようという意識が働いていたように思います。
たまたま私自身は少しずつ自分に意識を向けようというきっかけがあったので自分の心を観るという事に努めていますが、
中々まだまだ昭和な人間のその思い込みや植え付けは強いように思います。
植え付けられていると無意識に「自分の事よりも人」というのは、良い時も悪い時も働きます。
そうしているうちに段々と自分よりも他人を重視して、自分の事を観る考えるという事も無意識に忘れてしまうのです。
最初良いように働き競争心が生まれ頑張る心に火がついていても、
いつしか目の前の他人しか目に入らず、何に向かっているのかも見失います。
自分を見失うと、人を観ている方が楽になったりする時も出てくる。
人と比べ、同情から優越感に浸ることで良い思いになる事も。
自分を見失い人と比べると自己否定も起きてくる。
最初自己否定だったものが自己嫌悪、自己犠牲、自己逃避になり、
段々と、自分が観えなくなり、観なくなり、
優越感で自分の存在を大きくしてしまうことも。
その自己へ向かってきた被害妄想的な自己嫌悪や自己犠牲や自己逃避がさらに強くなり、
それが終いには他人のせいにし、他人へ怒りや寂しさや心をぶつけるようになります。
すべて共依存へ向かいます。
すべて自分の心を見失っていった先にあることです。
人格まで変わっていきます。
身近にいても止められなくなります。
愛で寄り添おうとしても味方であると思っていてもです。
これもそれぞれの人生だからと断ち切るまでに至ります。
自分の人生と他人の人生はどうあっても別物です。
自分の心は自分のもの、
自分の人生は自分のもの。
他人に対しては心で正直に寄り添う事しかできないもんです。
その前に自分の心を観ることです (^.^)
私も40歳ぐらいから自分の心を観るという方向へ進んできて、
好きな自分も見つけ、嫌いな自分も愛おしく感じるようになりました、
そこから他人へ愛もと感じましたが、
それが知らないうちに良いも悪いも共依存というところへ向かってしまう時もあり、それも経て。
還暦までになり他人の心は他人のものという奥深い教訓を得たように思います。
自分で自分の心を観て感じて、自分自身がまず幸せだと感じないと。
そんな居場所にそんな存在を感じていたいもんです (*^^*)
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