
問題の“聖なる水浴び”シーンは映画中盤に登場する。貴族の娘ルーシーと恋に落ちた中流階級のジョージ、ルーシーの弟フレディ、そして牧師のビーヴが一糸まとわぬ姿で泉で戯れる姿は、ゲイである原作者フォースター並びに監督のアイヴォリーにとっても“いい眺め”だった違いない。
が、作家E.M.フォースターがこの場面に込めた意味はそれだけではない。階級や身分(もしくは性)の壁もとっぱらって産まれたままの姿で混ざり合うこと。そのカオスこそが人間社会の理想であり、眺めのいい“美”そのものである、と原作者は考えたのではないだろうか。
英国人エリートたちが“美学”を教えまたは学ぶことに夢中になっていため、科学技術教育に熱心だった独仏に経済で追い抜かれた。これはあるフランス経済思想家の分析だが、本作に登場するイタリアかぶれの英国男たちが、美の探求に夢中になっている様子はその証拠。
ルーシー(ヘレナ・ボナム=カーター)の婚約者セシル(ダニエル・デイ=ルイス)がその典型ともいえるが、ルーシーを愛したのもそのピアニストとしての才能があるゆえであり、一女性としてのルーシーに惚れていたわけではない。ルーシーを美術品として愛でた自分に気づかされたセシルが靴を脱ぐ(背伸びをやめる)シーンが印象的だ。
貴族としてのプライドが邪魔をして、中流のジョージを愛している本心をひた隠しにするルーシー。それは周囲の目を気にして、ゲイであることをカミングアウトできずにいた、フォースターそし監督ジェームズ・アイヴォリーのオルターエゴでもあったはず。嘘を嘘で固めた人の苦悩が、本作もう一つのテーマと云えるだろう。
フォースターの考えたすべての差別や区別をなくした社会は、現代のグローバリストたちの理想と確かに一致している。が、自然は“コロナ”という新たな壁を人類に用意し、一つにまとまろうとする人間たちをあくまでも分断させておこうとするのである。おそらく人間が頭の中で考えた理想社会は、自然にとってけっしていい眺めではないのだろう。
眺めのいい部屋
監督 ジェームズ・アイヴォリー(1985年)
[オススメ度 ]