ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

楢山節考

2022年10月18日 | 誰も逆らえない巨匠篇

最近疲れ気味の時に見る映画は、洋画ならケリー・ライカート、邦画なら木下惠介とほぼ決めている私。後にリメイクが作られることが多い木下作品だが、カンヌでパルムドールを受賞した1983年版の方がむしろ有名なのかもしれない。そのリアリズム路線に徹した今村昌平バージョンを見ても、おそらく肩に力が入ってどっと疲労がたまるばかりだろうが、この木下惠介版は歌舞伎演出をふんだんに盛り込んだお伽噺的展開が見処になっている。

ちょっと見、日本のことをあまりご存じでない外国人むけにきちんと整備された京都にある神社仏閣のような人工甘味的演出ではあるが、荒んだ心にスッと染み込んでいつの間にか涙が頬を伝っている、そんな作品なのである。主人公おりんを演じるために前歯2本を抜いて撮影にのぞんだ田中絹代(今村版の坂本スミ子は4本抜いたらしい)のキャスティング、歌舞伎演出、貧しい農村の家屋そして“楢山様”をまるごとスタジオセットで再現した本作は、まちがいなく巨匠溝口健二を意識しているように思われる。

『西鶴一代女』のお春に負けず劣らずの汚れ役を演じた田中絹代が体現したのは、70歳すぎまで(歯も全部揃ったまま)のうのうと長生きすることへの“恥”であろう。「俺は70歳になったら楢山さまに行くずら」が口癖になっているおりんは、生きることに卑しいほどの執着をみせ楢山まいりを嫌がっている隣家の又やん(宮口精二)とは対照的に描かれるのである。この“生き恥をさらす”という日本特有の観念は、外国人の目にはとても奇異に写るらしい。100歳以上のご老人に表彰状が届く現代日本社会においてもとうの昔に忘れ去られた美徳なのであろう。

山に入ってからは、しきたり通りひたすら無言で“死”を受け入れようとするおりん。倅に無理やり楢山まいりに連れてこられたおりんと同い年の又やんは、倅ともみ合っているうちに七谷の底に突き落とされてしまう。帰り道の辰平にとがめられたその倅があやまって谷に落ちたとき、無数のカラスの群れが谷の底から飛び立ってくるのである。盗みを働いた雨屋一家が自警団と化した村人によって、谷に突き落とされたことを示唆する重要なシーンなのである。

ネズミっ子が一人生まれたらその分一人口べらしをしなくてはならない。ましてや他人の家に食物を盗みに入るなんていうのは言語道断、死罪に値する。かくも貧しい寒村で、好き勝手やりたい放題の孫けさ吉が女を遊び半分で身籠らせてしまったがために、サクリファイスを決意するおりんなのだ。そんな悲劇の締めくくりに、木下は「姨捨」という実存する駅をモノクロで写したすのである。ここに描かれたお伽噺は、決してフィクションではなく、事実にもとづいたストーリーであることを伝えんがために。

楢山節考
監督 木下惠介(1958年)
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