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毎年元旦音楽の都ウィーンで開催される、ウィーンフィルによるニューイヤー・コンサートをTVで見た。今年の指揮者はドイツ人のクリスティアン・ティーレマンだったせいか、いつもは国際色豊かな客席も、裕福な日本人客がチラホラ目についた以外(バブルがはじけた中国系は皆無?!)はほぼ白人、それも地元ゲルマン系の観客が大半を占めていたような印象を受けたのである。EUに渦巻く分断と不寛容のおかげで、まるで先祖返りしたような珍しい客層のコンサートだったのである。
お高くとまった外国人マエストロが、音楽素人の外国人スノッブどもに向けて指揮棒を振るったりすると、きまって場の雰囲気は悪くなり凡庸なコンサートになりがちなのだが、ティーレマンのサービス精神旺盛なパフォーマンスによって、楽友協会はいつにもまして和やかムードに包まれていたような気がしたのである。実際会場で演奏を聴いた久石譲が、やれウィーンフィルのバランスがいいだの、コントラバスが面白いなどとほざいて通を気取っていたが、特筆すべきは今年の会場の雰囲気だったはずなのである。
ティーレマンが休憩から戻るたびに会場の観客に向けて笑いかける、ゲイリー・シニーズ似のひきつった表情はなぜか好感度満点。戦争に疲れたウィーンっ子を癒すためにヨハン・シュトラウスが作曲した『美しく青きドナウ』演奏前の、ウクライナ紛争やパレスチナ紛争によって分断が進んでいる世界を意識した短いコメントは、官僚の下書きをそのまま読み上げる増税メガネの無味乾燥スピーチなんかよりも、よっぽど真に迫ってくるものがあったのである。しかも恒例になっている新年の挨拶はドイツ語のみという、ゲルマン・ファーストな演出になっていた。
何を言いたいのかというと、グローバリズムの影響で多くの人種が同一エリアに混ざりはじめると人間は何故か不寛容になり、2024年元旦の楽友協会のように単一民族が大半を占めた場所では、逆に人間はとても寛容になりやすくなるのではないか。そんなパラドクス現象に気がついたのである。毎年恒例のラデッキー行進曲で締めくくられた後、いつもはクールなゲルマン系やアングロ・サクソン系の白人たちが、頬を赤らめながら談笑している姿がとても印象に残ったのである。
グローバリストたちの洗脳により混ざり合うことはいいことだとつい思いがちな私たちであるが、地球に誕生して以来自然の脅威と戦ってきた人類にとって、安心して暮らせる場所があってはじめて他人に優しく接することができるのではないか。自分の生活を犠牲にしてまで利他に生きられるのは、イエス・キリストぐらいなものなのではないか。物質文明にさんざん甘やかされて育った一般ピープルに、そんな高邁な精神を求めること自体土台無理な話なのである。
楽友協会の客席と演奏スペースを分け隔てる“壁”がまるで取り払われたようなこのコンサートを、生で観ることができた(普段から多人種の中の生活を強いられていた)白人の観客は、きっと久々に幸せな経験を味わったに違いない。但し、ドイツ語も分からない日本人客がその会場にいても久石譲のような部分部分の評価がせいぜいだろう。ナショナリズムが不寛容を生み出すのではなく、むしろグローバリズムが不寛容を生んだことが、まざまざと証明されてしまったコンサートだったのだから。
2024年 ウィーンフィル
ニューイヤー・コンサート
指揮者 クリスティアン・ティーレマン