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ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

ラヴィ・ド・ボエーム

2024年09月02日 | なつかシネマ篇


プッチーニが自作オペラのゲストである貴族の皆さんの贖罪意識を擽るために改竄を加えたであろう、H.ミュルジェーによる原作小説を無論読んだことはない。が、自称ボヘミアン監督の異名をとるアキ・カウリスマキにとってそれは許されざる暴挙であったはずなのだ。もしそうでなければ、本作映画化のため構想に15年?!もの歳月をかける必要もなかったと思うのだ。

パリが舞台でしかも全編フランス語の作品なのだが、おそらく、ロケーションはカウリスマキの地元フィンランドであり、凱旋門等のパリを感じさせるカットは合成であろう。フランス語をしゃべれるわけがないマッティ・ペロンパー、アンドレイ・ウィルム、カリ・ヴァーナネンのカウリスマキ組常連俳優3人組の台詞は全て吹替だ。“貧乏”を演出するために(プッチーニのように)わざわざ金をかける必要もない、ということなのだろうか。

金持ちの資本家役でカメオ出演している映画監督仲間のサミュエル・フラーやルイ・マルがカメオ出演しているキャスティングも見逃してはいけない。低予算のB級映画監督と知られるフラー、富豪の家に生まれながらエリートコースからドロップ、映画監督の道を独自に模索したマルをわざわざ起用した理由とは一体なんだったのだろう。ヴェンダースが『アメリカの友人』で映画監督を多数キャスティングしたことと同じ意図が見え隠れするのである。

芸術家たるものいな映画監督たるものは、アメリカ=ハリウッドに飼われて金のために映画を撮ってはいけない、という自戒をこめたメッセージ性を感じるのである。労働者の味方だったはずの米国民主党が、イスラエル・ロビーやウォール街に懐柔され、いつの間にか貧乏人をこれでもかと搾取する資本家のお友達政党に変貌していった経緯を見れば、その理由は自ずと知れるだろう。カウリスマキは多分こういいたかったのだ。芸術は金持ちが独占するものではなく、むしろ貧乏人にこそ開かれるべきカルチャーなのだ、と。

唐突に訪れた短い春をまるで謳歌するように、貧乏芸術家たちはピクニックに出かけた森で幸福な一時を過ごす。画家に飼われている雑種犬ボードレールも、池の白鳥たちもみなツガイとなって実に楽しそう。しかしそんな麗らかな時間もそう長くは続かない。あぶく銭を手に入れてはどんちゃん騒ぎを繰り返し、元の一文無しに。ひたすら続く貧乏生活に耐えきれず画家の恋人ミミはとうとう安アパートを出ていってしまうのだが、身体をこわし画家の下に出戻って来る。

この後、カウリスマキ作品にしては大変珍しいアン・ハッピーエンディングを迎えるのである。画家は、ボードレールをつないでいたロープを解放し、再びアンバニアに強制送還されるべく警察へと出頭するのだろうか。愛するミミを最後まで幸福にできなかった罪を背負いながら.....

ラヴィ・ド・ボエーム
監督 アキ・カウリスマキ(1992年)
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