青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-14 03:32:30 | 月の世の物語・別章

月の世の一隅に、深い杉の森に囲まれた小さな廃村があり、沈黙の微笑みの混じった白い月光が、人気の無い村を静かに照らしていました。昔ここでは、地球上で、決して伐ってはならぬ神聖な森の木々を伐り、架空の偽神のために神殿を建てた人々が、その罪を償うために働いていました。彼らは何百年かの間、森の木々のために働き、樹霊たちの愛の心に触れてゆくうちに、深く後悔し、木に感謝することを学び、罪を悔いあらためて許され、やがてみな、この村を離れていきました。
そして人々が去ったあと、杉の樹霊たちは、まだ人間には教えてはならない秘密の穢れを清めるため、ずっとこの静かな地獄にとどまり、歌を歌ったり、風を呼び込んだりしながら、長い時をここにとどまり、過ごしているのでした。

今、その廃村にひとりの青年が音もなく姿を現し、村の真ん中にある小さな空き地のベンチに座りました。するとすぐに、空き地の隅に小さな扉が現れ、その扉の向こうから、水色の制服を着た日照界の青年が現れました。彼の顔を見ると、月の世の青年は立ち上がって、「やあ」と明るく声をかけ、手を伸ばして握手を求めました。日照界の青年は、扉を消すとすぐにその手を握り、「やあ、ひさしぶり」と答えました。

「ありがとう。休みを合わせてくれて。迷惑をかけたんじゃないかな」日照界の青年が言うと、月の世の青年は笑いながら言いました。「いや、いいんだ。僕も少し休みたかったところだから。で、何だい?何か、僕に相談でもあるんじゃないかい?」すると、日照界の青年は、少し視線に影を見せながら、彼の隣に座り、背もたれに背中を落として、しばし、杉の梢の向こうに見える月を見上げました。
「月光はいいね。まるで心が清められるようだ。罪びとの心も、月を見たらそれは休まることだろうね」「…ふむ。まあね。いろいろとあるが、罪びとには確かに月は必要だ。だれかから聞いたことがある。月光を浴びていると、まるで気立てのよい美しい妻が、そばにいて寄り添ってくれているかのようだと」「…なるほど。そんな感じだな。本当に心が安らいでくる」。

月の世の青年は少し口をすぼめ、隣の青年を見て言いました。「言わなくてもわかるよ。仕事で、つまずいてるんだろ?君」すると日照界の青年はため息をついてうつむき、「ばれても仕方ないね。人はだれも、心に影が差し始めると、月光が欲しくなる」と言いました。月の世の青年は微笑み、やさしく言いました。「何があったんだ。言えよ」すると日照界の青年はしばし唇を噛み、沈黙したあと、小さく口を開きました。「ガゼルに、嫌われてしまったんだ。僕が、彼らに難しいことを教えすぎて。精霊たちにも、ちょっとやりすぎだってきつく言われてしまった」それを聞いた月の世の青年は、ははあ、と言って何かを言いかけました。すると日照界の青年はそれをさえぎるように、声を大きくして言いながら、顔をそむけました。「わかってるよ。君も言うんだろ?僕がイエスに影響されすぎてるって」「わかってるなら、少しは改めろよ。言っちゃあなんだけど、その髪も髭も、全然君に似合わない。イエスは素晴らしいお方だ。上部よりももっと上の方にいらっしゃる、清らかなお方だ。そんな高いところにいらっしゃる方の下手な真似をしても、滑稽なだけだ」月の世の青年は、遠慮会釈なく言いました。日照界の青年はしばし黙りこみ、瞳に悔しさを燃やしてじっと宙をにらみました。

ふたりの青年はしばらく黙ったまま、動かずにいました。やがて月の世の青年が口を開きました。「過ちて改めざる、これを過ちという」「それは孔子だ。イエスじゃない」「そんなことは知っている。でも今の君にはぴったりだ。みんなが君に同じことを言うのは、やはり君が間違っているからだよ。それは改めなきゃいけない」「イエスは美しすぎるんだ。そして悲しすぎる。僕は逃げられない。つらくて、悲しくて、僕があの場にいたなら、絶対彼の代わりに十字架につく。それで助けてあげたい。どうやってでも、助けてあげたい…」
月の世の青年は、日照界の青年の真剣な横顔を見つめつつ、少し困ったように眉を寄せました。そして助けを求めるかのように月を見上げたあと、しばしの間じっと考えて、少し話をそらして、彼の心を別の方向に向けようと思いました。

「君の仕事はガゼルの導きだけど、日照界では、地球上のすべての生命をみんな、そんな風に導いているのかい?」すると日照界の青年は大きな丸い目をして彼を振り向き、まさか!と言いました。「僕たちがお手伝いできるのは、全体のごく一部だ。たとえば魚類や昆虫類なんかは、とても僕らの手には負えない。僕らの感覚ではまだ彼らの魂を感じることはできないんだ。ほとんどは神がおやりなさっていると言っていい。僕たちがガゼルや象や鳥や人類の導きをするのは、仕事でもあり、学びでもあるんだ。神は僕たちに、一部の幼い魂の導きをさせることによって、命の真実を教えるんだ」「なるほど、教育しながら、教育されてるわけだ」「そういうこと。月の世でもそう変わりはないだろう?」「ああ、とてもいい勉強になる。罪びとを導くのは大変だ。地獄にはあらゆる悪や愚やおかしな言い訳や卑怯な悪知恵なんかがたくさんある。僕たちにはそれに対処する高い知恵と力が必要だ。罪びとは時々、とんでもないことをする。怒りを鎮めて、それに対処する心の強い制御力も必要だ」

彼らはしばし、自分たちの仕事について、熱く語り合いました。理想や愛についても、深く対話を交わしました。そして行き着くところはやはり、すべては愛だ、というところなのでした。日照界の青年は片手を拳にしたり開いたりしながら、少し興奮した様子で言いました。「そう、すべてはそれだ。世界は愛。すべては愛そのもの。イエスの言いたかったことはそれだ。存在のすばらしさ。今自分がここにあることの幸福、神の御心の真実。世界に存在するもの、それはすべて愛、ただ一種類の愛のみだ。そしてそれが、あまりにもたくさんいる。そしてひとつとして同じものはない。この奇跡。創造のあまりにも崇高な不思議。僕たちはほとんど何もわかっていない。でも愛はいつも導いてくれる。僕たちの目が真実を見ている限り、僕たちの前にはひたすらまっすぐな愛への道、すなわち神の国への道が続いている…」「そう、すべては同じ。そしてすべては違う。僕は僕、君は君、だが僕も君も、同じ存在というものであり、愛というものを共有している。愛の中で魂が共鳴し、神の幸福の中へ導かれるときの歓喜はすばらしい。僕たちは幸福だ。限りなく幸福だ」

青年たちは、月光を浴びながら、しばし、同じ愛の元、自分たちが同じ愛であることを感じ、共鳴しあい、語り合うことの幸せに浸っていました。こうして友がいることのなんと幸せなことだろう。ふたりは同時にそう思いました。

やがて、会話に一区切りがつくと、日照界の青年はひざに手をおいて、ふうと息をつき、月の世の青年は背もたれに大きく体を預けて、月を見上げました。

静寂がしばしの時を濡らし、月光に照らされた森が、今初めてそこに現れたかのように、彼らの目の前に広がりました。杉の樹霊たちもまた、彼らの会話に共鳴し、ひそひそと愛を語り合っていました。

「僕は僕、君は君、か…」と、日照界の青年がふとつぶやきました。月の世の青年は言いました。「そう、イエスはイエス、君は君だ」すると日照界の青年は口の端を歪めて痛いところをつかれたという顔をし、苦笑しました。
「僕たちは、神に学ぶ。日々、学ぶ。そして、いつも、追いかけている。あのように高く、美しいものに、いつかなりたいと、願う。そう、きっと、何万、何億年と、永い永い年月をかけて、僕たちが学び、あらゆる高い壁を超えてゆけば、やがて空高く飛んで、あの神のように美しい創造を行うことができるようになるんだろう。しかし僕たちは決して、神には追いつけない。永遠に追いつけない。だから、永遠に追いかけ続ける。イエスも、そういう方だ。僕たちが永遠に追いかけ続ける人。決してあの愛には、かなわない。彼と同じことはできない。でも、僕は僕だ。僕は学び、僕自身の創造を行い、より本当の僕自身になってゆく。君もそうだ。髪や髭を伸ばしても、決してイエスになれるわけじゃない。あの方はあの方だ。君は君だ。あの方は、君が自分の真似をするよりも、ずっと、君が君らしいことを喜ぶと、僕は思う」

月の世の青年は熱い心をこめて日照界の青年に語りかけました。日照界の青年は唇を噛み、茫然と目を見開きながら、月光の落ちた地面を見つめていました。心の中で、何かに縛られていたものが解放され、うごめき始めたような気がしました。やがて彼は顔をあげ前を見て、神の前に決意を述べるように、「そう、そのとおりだ」と言いました。そして静かにベンチから立ち上がると、さっと顔をひと振りして、その長い髪と髭を消しました。すると金色の短髪をきれいに整えた、青い大きな瞳の青年が、月光の中に現れました。

金髪の青年は、前よりも少し輪郭が硬質になり、少年ぽさがいくぶん消えていました。月の世の青年はそれを見て少し安心し、「やあ、君」とまるで今出会ったかのように彼に声をかけました。「ひさしぶりだ。いや、初めて会うのかな。」
すると日照界の青年は彼を振り返って手を差し伸べ、握手を求めました。そして彼と手を握り合いながら、「はじめまして、君。僕は日照界からきた、僕というものだ」と言いました。

ふたりは同時に吹き出し、おかしくてたまらぬように足をばたつかせ、腹をかかえて笑いました。笑い声は高く森に響き、木々の間をこだましました。

「じゃあ、そろそろ」「ああ、だいぶ時間が経ったね」やがてふたりは、微笑みを交わしつつ、別れを惜しみました。「またいつか会おう」「うん」。

友達がいるのは、本当にいいことだな。金色の短髪の青年は胸に温かさを感じつつ、月の世の青年に向かって手を振り、扉の向こうに去ってゆきました。そしてその扉も消えて見えなくなると、月の世の青年もまた、小さな呪文を唱え、そこから姿を消しました。

再び人気のなくなった廃村には、しばし、彼らの残した対話の熱が残り、そこに静かに、月が温かなまなざしを注いでいました。



 
 
 
 
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