そこは、深い緑の森に囲まれた、静かな湖でした。森の向こうの遠くには、高い山の白い頂が、幻のように空に浮かんで見え、湖水はどこまでも青く澄んで、その白く清いものの姿を自らにまとうように映しこんでいました。
夜が明けてまだそれほど間は立たず、空はようやく青く見え始めていました。湖には、たくさんの白鳥たちが、あちこちで羽根を休め、まだ覚めやらぬ夢の中にいるように、水の上を漂っていました。
しかし、白鳥たちの気づかぬところで、季節の神は静かに動いていました。山の雪が、かすかに揺れ動く音を、神は聞き逃さず、冬の終わりが来ることを、風に告げました。雪の中に小人のように潜んでいた花の魂が、硬い花芽をおずおずとゆるめ、かすかな光と香りを放ちました。風は大喜びで、その香りをあたりかまわずふりまきました。
太陽が高く上る頃、十分に体の温まった白鳥たちは、かすかな異変に気付きました。この香り、どこかでかいだことがある。軽い記憶の石の中に、うずくものがあり、白鳥たちは何故にか、そわそわし始めました。
その頃、湖の岸辺では、水色のスーツを着た一人の青年が、白い布に紋章を描いた旗を、空をかき回すように大きく振っていました。その姿は、白鳥たちには決して見えませんでしたが、その人がやっていることこそが、彼らの心をかきたてている魔法の一部なのでした。
白鳥たちの一羽が大きく羽根をばたつかせ、ようやく気付き、高く声をあげました。
ああ!帰らなければ、帰らなければ!ふるさとへ、ふるさとへ!
岸辺の青年は、いっそう旗を強く回し、上空にいる季節の風の精霊に合図しました。すると精霊は白鳥たちに温かい風を吹き付け、彼らの情熱をかきたてました。白鳥たちは互いに鳴きあい、翼をばたつかせ、何かに焦るように首を空に向けて、高く叫び、激しく何かを求めていました。
ああ、思い出したわ!思い出したわ!
たまご、たまご、たまご、こども、こども、こども、そして、すてきな、すてきな、こいびと……!
帰ろう!帰ろう!いえに帰ろう!みんなで帰ろう!
気の早い白鳥がさっそく水の上を走りだし、空に飛びだしました。すると湖の上の白鳥たちが次々と彼の後を追い始め、空に大きな白鳥の群れが浮かびました。季節の風の精霊は、群れの数が十分に空に集まったのを確かめると、口笛のような音を立てて、岸辺の青年に合図し、そのまま群れを導いて、高い山の方に向かって飛んでゆきました。
ほとんどの白鳥が、空に飛んでいったのを確かめると、青年は旗を振るのをやめ、それを魔法で消してから、指笛で小さな旋律を吹き、一羽の大きな鳳(おおとり)に姿を変えました。湖のすみには、ただ一羽だけ、群れの後を追えずに、残っている白鳥がいました。
彼はもうだいぶ年をとっており、とっくの昔にこいびとを失い、自分もまた見えない病気に侵されて、生命の力を失いつつありました。それでも白鳥は、何とかして空に飛び上がろうと、必死に足でもがき、力のはいらぬ翼を広げようとしていました。湖の水が冷たく、彼から体温を吸い取ろうとしていました。
ああ、たまご、たまご、たまご、こども、こども、こども、すてきな、すてきな、こいびと……
ぼくもいく。ぼくもいく。ああ、かえりたい、ふるさと、ふるさと、ふるさと……!
力をふりしぼって叫んだそのとき、彼は岸辺に、どこかで見たことがあるような大きな鳥がいるのを見つけました。その鳥は、姿は白鳥に似ていましたが、頭に瑠璃色のきれいな冠羽があり、孔雀のように長く白い飾り尾を後ろに引きずっていました。その長い尾の先にはそれぞれ、瑠璃の珠をはめ込んだような丸い模様がありました。
それは、一羽の白鳥が地球上での生命を失った瞬間でした。鳳は、白鳥に向かって一声、ふぉう、と鳴きました。それは、おいで、という意味でした。白鳥はその声に引き込まれるように翼をはばたかせました。すると思ったよりもずっと軽く、体はふわりと浮かびあがりました。鳳もまた、翼を広げ、空高く飛び上がりました。白鳥は鳳の後を、追い始めました。風が彼に歌を歌うようにささやきました。彼は歌いました。
ああ、たまご、たまご、たまご、こども、こども、こども、すてきな、すてきな、こいびと…。帰ろう、ふるさとへ。なつかしい、ふるさとへ…。
ふと気付くと、鳳の後を追っているのは、彼だけではありませんでした。白鳥だけでなく、雁やヒタキ、鷺や鶴、スズメや鴉などもいました。そしてそれぞれが、それぞれの声で、歌っていました。
たまご、たまご、たまご、こども、こども、こども……、ああ、なんで、なんでこんなにつらいの?くるしいの?ああ、たまご、たまご、たまご、こども、こども、こども……
すると鳳が、その声にこたえて、不思議な声で言いました。
「君たちが苦しいと感じているのはね、愛というものだよ」
あい?あーいー、あい、あい、あーーいーー?それなに?
「それはね、とてもいいものだ。君たちには、まだ難しい。でも、ことばだけは覚えておいで。すべては、愛なんだよ。たまごも、こどもも、こいびとも、みんな、みんな、愛なんだ」
いいもの?いいもの?それって、おいしいもの?
「それも、愛だよ。いいかい、決して、愛から離れてはいけない。こどもがおやから離れてはいけないように、決して、愛から離れてはいけない。覚えておいで。決して忘れてはいけない。みんな、みんな、愛なのだ。君たちも、みんな、愛なのだ」
やがて、あたりは夜になり、星が見え始めました。それは彼らが青い空の天井を超え、宇宙空間に飛び出したからでした。ふと、ヒタキが一羽、高い声をあげました。
ああ、思い出した。あれが、ふるさとだ。
そのとき、鳳が、また、ふぉうう、と鳴きました。するとまるでだまし絵のように、鳥たちの群れの前に、宇宙空間の模様をした透明なカーテンが現れました。カーテンは真空の風にそよぎ、その向こうからかすかな懐かしい香りをはこんできました。
そうか。帰るのだ。ぼくたち、帰るのだ。ほんとうの、ほんとうの、ふるさとに。
鴉が鳴きました。するとすべての鳥たちが、昔、本当にいた場所のことをいっぺんに思い出しました。あそこだ、あそこがほんとうのふるさとなんだと、鳥たちはそれぞれに言いました。鳳は鳥たちの群れを率いてカーテンをくぐりました。カーテンの向こうには、また青い空が広がり、森と山に囲まれた鏡のような湖があり、緑の山の向こうには、広い川の河口のある青い海が広がっていました。
白鳥をはじめ、水鳥たちは湖に降りて羽根を休め、ヒタキなどの小鳥は森の木々の枝にやすらいました。海鳥たちは山を超え、海へと向かいました。そしてすべての鳥たちがそれぞれの場所に帰ったのを見届けると、鳳はふぉっと一息鳴いて、また湖の岸辺に降り、すぐに元の青年の姿に戻りました。
太陽は九時の位置にあり、鳥たちを明るく照らしていました。上空を飛ぶ精霊が歌を歌い、それぞれに生きてきた鳥たちの魂の疲れをいやしました。青年はポケットから一枚の蛍石のカードを取り出すと、それをはじいて薄いキーボードに変え、何かをカチカチと打ち込みました。彼の水色の上着の胸には、日照界の紋章がありました。
彼は鳥たちのまだ幼い魂が、病に侵されずにすべて健康であることを確かめ、キーボードに打ち込むと、それをすぐにまた元のカードに戻し、ポケットに入れました。そして後を精霊に任せると、パチンと指をはじき、目の前に小さな木の扉を呼びました。彼はその扉を開け、ゆっくりと中に入って行きました。彼が姿を消すと、扉もまた消えました。
鳥たちは、それぞれの場所でやすらいながら、生きていたころの、幸せな夢を見ていました。
ああ、たまご、たまご、たまご、こども、こども、こども、そして、そして、すてきな、すてきな、こいびと……