ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧千畑町畑屋を往く-5(その8、終)

2022年09月29日 | 旧千畑町を往く

<「仙北平野」をこれまで歩いた足跡>

●歩いた日:2022年8月22日(月)

●歩いた所

 ・金沢東根: 湯ノ沢、蛭川、川原田、竹花、善知鳥坂、観音下、寺村、元屋敷、大石

●歩いたログ(足跡)(道のり8.0km)

 (以上の地図:国土地理院)

 最後に、歩いたところの航空写真をご覧いただく。今回は歩いたところが南北に長いので、年次毎に写真2枚になる。

 まずはH28年の北の部分の写真。

 中央下に「湯ノ沢橋」があり、その東たもと、「P」が車を停めた場所。黄色の線は今回歩いた道筋である。

 「丸子川」をご覧いただきたい。「湯ノ沢橋」のすぐ上流(南)に、最初の写真に写っていたコンクリートを打った部分が白っぽく写っている。同じように白っぽいところが、橋の下流(北)には何カ所も見える。これを見ても、草木が生えるのを抑え、流れをスムーズにするためのものと考えられる。

 車を停めた場所のすぐ北に、手すりに「アオサギ」と止まっていた小さな橋がくっきり写る。橋がかかる水路は、ログ地図を見ると、小さなため池が設けられた「西の沢」から流れ下る水路(小河川)であることがわかる。小さな沢であっても、そこから流れ出る水は貴重な用水だったと考えられる。

 右下に「金沢東根小学校之跡」碑がある場所を示した。その小学校がT3年に移転した場所は、先にS43年の航空写真で確認したが、現在、そこは「湯竹農村公園」(「湯竹」)は「湯ノ沢」と「竹原」に由来)となっているようだ。

 次に同年の南の部分の写真。

 この写真では中央上端が「湯ノ沢橋」と車を停めた場所。

 右上隅の、今回歩いた(黄色線の)山裾の道筋を覚えておいてほしい。後でS23年の写真を見ると、かつてはもっと山中を通っていたことがわかる。

 下端に立ち寄った神社が写る。鬱蒼とした木立に囲まれている。

 中央に「元屋敷」の大きな屋敷が見える。赤い屋根のほかに白っぽい屋根も確認できる。屋敷周りの木々は、北から東側にかけてはまばらになっている。元々はどんな様子であったのだろうか、古い航空写真で確認してみたい。

 次にS51年の北の部分の写真。


 
 田んぼは現在よりも小区画ながらほとんど整備されているので、道筋も現在とほぼ同じである。

 「丸子川」の流路にかなり木が茂っている。これでは増水時に流れが相当妨げられそうだ。そのため、現在は、部分的にコンクリート舗装が行われ、それ以外の所は木を全部伐採したと思われる。

 「金沢東根小」跡のところをご覧いただきたい。校舎と思われる建物が写っている。S47年に統合して「千畑南小学校」となったので、廃校になった後であるが、まだ校舎が残っていたことがわかる。ただ、S43年の写真では、もっと左手(西側)にも建物が延びていたので、その部分は取り壊されたようだ。

 校舎の東側には、まだグランドの趣を残した土地が広がっている。

 次にS51年の南の部分。


 
 右側に「田沢疎水」の用水路が写る。赤色で指し示した辺りの水路をよく見ると、橋が架かっている。当時は覆いがかかっていなかったことが分かる。

 また、黄色で「田沢疎水」と指し示した辺りから北にかけて、木がまだ大きく枝を広げていなかったこともあって、山の中も水路をはっきりたどることができる。

 「元屋敷」の大きな屋敷は、現在よりもずっと木立の密度が濃く、ひし形の屋敷となっている。

 最後にS23年の写真で、これも北の部分から。


 
 この写真を見てまず注目することは、未整備とはいえ、山の裾から「丸子川」両岸の広い範囲にわたって田んぼが広がっているのに対して、左岸(西側)の、川から少し離れた地域(写真左下)には田んぼが見えないことである。「丸子川」東側の田んぼは、山あいから流れてくる沢水を、「丸子川」左岸(西側)の田んぼは「丸子川」の水を利用できるので開田されたが、「丸子川」はそんなに水が豊富でないので、川から少し離れた西側の地域まで水が行き渡らず、当時は開田できなかったためである。

 次に目に付くことは、「丸子川」が直線的に伸びており、すでに改修されて堤防も築かれていることである。戦後間もないS23年の、ほかの地域の写真を見ると、大半の河川は未改修で激しく蛇行している様子が写っている。しかし、「丸子川」が平野部に出るこの辺りは、大雨が降ると「東山」の谷あいから大量に流れ下る水が真っ先に氾濫するので、いち早く改修されたのだろうか。ただ、上流が改修されると、今度は水はそのすぐ下流部に一気に流れるので、そこが洪水に見舞われるのではないだろうか。いずれ、末端まで改修しないといけないことにはなる。

 なお、S51年のように川中に木立が見えない。改修して間もない時期のようだ。

 道筋は、田んぼが未整備なので大きく異なる。よく見ると、田んぼの形状に沿った曲がりくねった道が多い。現在の道筋の一部を黄色線で書き入れて見た。

 上段に、51年の写真と比較しながら📸002と004の地点を書き入れてみた。

 右下に「金沢東根小学校」の校舎が見える。先に見たS43年の校舎とは少し異なっているように見えるが、S43年までに改築されたのだろうか。

  次に南の部分。


 
 この写真でも「丸子川」に着目すると、堤防の外側に木立が連なっているところがある。改修以前の川原はここまで広がっていたことを示していると考えられる。

 この写真の黄色線も、現在の道筋を書き入れたものである。右上隅の昔の道は、建ち並ぶ家々の北側(裏側?)の山中を通っている。

 「丸子川」の東側、「下村」、「善知鳥坂」一帯の田んぼをご覧いただきたい。不整形で小さな区画の田んぼが広がっている。傾斜は少し緩いかもしれないが、まさしく棚田で、田んぼの畦畔が等高線のように見える。

 ところで、右上隅、前掲写真で示した「金沢東根小学校」のすぐ脇に広い帯状の白い部分があるが、これは何だろうか。ログ地図で分かるように、ここは沢筋になっており、まるで山から麓の田んぼに向かって土砂が流れたようにも見えるのだが・・・・?。

 「元屋敷」の大きな屋敷は、敷地内に見える木立はごくわずか(一本、大きな木が見えるが、📷019の栗の木だろうか)で、むしろ、屋敷の東側から北側の広い範囲にわたって鬱蒼と木々が茂っている。この辺りは、かつては「丸子川」の氾濫原で、改修後もまだ開田されずに森林状態になっていたようだ。

(終わり)

●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:543.9km)

 次回からは「丸子川」」をさらに遡って、旧「六郷町六郷東根」まで歩いた記事を掲載する予定です。


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