つらつら日暮らし

一寸坐れば、一寸の仏?

鈴木大拙居士(1870~1966)の随筆で、曹洞宗の禅を以下のようにまとめていた。

一方日本の曹洞禅があつて禅戒一如の思想や、一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方、「正法眼蔵」の研究、道元中心の禅などと云ふものが出来たが……
    大拙居士「公案禅と念仏禅」、『禅:随筆』大雄閣・昭和2年、350頁


ここで気になったのは、「一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方」であり、これは曹洞宗の教えといえるのだろうか?確かに、この一句を御垂示等に用いられた事例も少なくないように思うが、ただ、少し議論を要すると思うのだ。例えば、江戸時代の学僧・天桂伝尊禅師が次のような批判を行ったことで知られる。

老僧常道、汝等坐禅修行すといへども、但修習行儀無実究道理、只管打坐、仏祖眼睛、在規矩中、一寸の坐禅、一寸の仏などヽ云、瞎禿子の妄談を信じて、著眼看なく、滅法界裡に打坐する、譬ば目当なく発つ箭、終に的に中ることなきが如し、
    天桂禅師『正法眼蔵弁註』「仏性」篇


以上の通りで、天桂禅師は「一寸の坐禅、一寸の仏などヽ云、瞎禿子の妄談」とされ、この考えについては誤った教えだと判断している。更に天桂禅師の教えを見ていくと、他にも以下の説示がある。

然るに今時の人師等、坐禅を学者に勧誘するに、一寸の坐禅は一寸の仏なりと云て、専ら悟を待たしめ、或は有所得の妄想窟中に蹲踞し、或は魂不散の滅法界裡に坐死せしむるのみ、実に元古仏無上の大禅を知底なきことを悲むのみ、
    同上「坐禅箴」篇


この一節をそのまま承けると、天桂禅師の批判は、同時代の指導者に向けられている。しかも、「一寸の坐禅は一寸の仏」について、「待悟禅」であると判断している。一方で、天桂禅師が理想とされた坐禅は、ここでは薬山惟儼禅師の「非思量」話に見られる「兀兀地」の坐禅であった。つまり、悟を待つことなく、兀兀と坐する修行こそが、道元禅師の「無上の大禅」だとされたのである。

その上でこの、「一寸の坐禅、一寸の仏」の典拠は、実は余り良く知られない。類語であれば、以下の通りである。

一座の坐禅は一座の仏、一日の坐禅は一日の仏、一生の坐禅は一生の仏。
    潮音道海禅師『坐禅論』延宝7年版、7丁裏、原典に基づき訓読


潮音道海禅師(1628~1695)は黄檗宗の祖師であり、いわゆる隠元隆琦禅師―木庵性慆禅師と続いた系統の後継者であった。曹洞宗内からも、以下の評価が見られる。

 師曰く、東渡の隠元禅師は、晩明の英傑なり。門下に出ずる者、木庵を越えるは莫し。木庵に嗣ぐ者の、潮音を最と為す。潮音の倡うる所は、乃ち隠元・木庵の直指なり。
 潮音の著す所の『坐禅論』一冊、今、世に行わる。之を読んで即ち知るに、明朝、実に仏祖正伝の修証を失するなり。
其の所論、也た唯だ元・明の禅師の私案に拠る、未だ二乗の観練に及ばずに似たり、何ぞ摩訶衍の三昧を望まん。況んや之れ少林の壁観に擬せんや。
 汝等、禅余に之を読み、永平祖師の家訓の坐禅と対決すれば、則ち黒白の分立ちぬ。古人、之を揀異と謂う。努力よや。
    損翁宗益禅師提唱・面山瑞方禅師編『見聞宝永記』、原漢文


以上の通りで、損翁禅師は潮音禅師のことを隠元禅師の直系だと示しつつも、その著作『坐禅論』について大いに批判されたのであった。そうなると、先に挙げた「一座の坐禅は一座の仏」もその批判に含まれるように思う。また、時代的には潮音禅師の教えに影響を受けた人を、前掲の天桂禅師は批判しているのかもしれない。それで、拙僧自身がこの語に違和感を覚えるのは、「仏」の側である。道元禅師の教えで「仏」とは常に、無分別であると思われる。そうなると、「一座」「一日」「一生」と、仏の側を分別することになると思うのである。

そこで、比較の対象として、次の教えを見てみたい。

 堂頭和尚示して曰く、「世尊言く、『聞思、猶お、門外に処する如く、坐禅は直に乃ち帰家穏坐なり』と。所以に坐禅すること乃至、一須臾・一刹那なりとも、功徳無量なり。我は三十余年、時と与に功夫弁道して、未だ曾て退を生ぜず。今年六十五歳、老に至って弥よ堅し。你、還た是の如く弁道功夫せよ」と。
 宛かも是、仏祖金口の記なり。
    『宝慶記』第38問答


坐禅の時間と、その功徳について示された天童如浄禅師の教えだが、このように、「所以に坐禅すること乃至、一須臾・一刹那なりとも、功徳無量なり」である。つまり、功徳無量なのだから、仏の「一座」「一日」「一生」という分別は生じようがない。道元禅師御自身にも、坐禅の時間と功徳との相関関係について示された一節がある。

釈迦牟尼仏、菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日、あるいは結跏趺坐、時間の跏坐、これ転妙法輪なり、これ一代の仏化なり。さらに虧缺せず、これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけの、ほとけをみる、この時節なり。これ、衆生成仏の正当恁麼時なり。
    『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻


注意すべきは、これは釈尊の坐禅について語っているので、文字通り坐禅の時間が、そのまま仏ということだが、坐禅の時間自体を無分別で捉えているので、少し違うかもしれない。ただ、釈尊の結跏趺坐が、そのまま全ての説法であることを意味している。よって、やはり坐禅の無分別が、その結果の無分別に直結している。

よって、あくまでも試論的な記事であるが、以上から「一寸坐れば、一寸の仏」というのは、少し違う気がするのである。「一寸坐れば、無量の仏」であるから、「無量坐れ」という話が妥当ではないかと思うのである。なお、昨日の坐禅会で『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻の一部を読んだので、この記事をアップしてみた。

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