爾時、彼の国に大長者有り、一切施と名づく。長者に子有り、名づけて戒護と曰う。母胎に在りし時、母、信敬するが故に、予め其の子の為に三帰依を受く。子、既に生じて已に年、八歳に至る。父母、仏を請して家に於いて供養す。童子、仏を見て安んじて行き徐ろに歩み、足下に華を生じ、大光明有り。見已りて歓喜し、仏の為に礼を作す。礼し已りて諦観して目、暫らくも捨てず。一たび仏を見已りて即ち能く百万億那由他劫の生死の罪を除却す。
『観仏三昧海経』巻9「本行品第八」
以上である。これなどは、明確に功徳を及ぼそうとして、母親が胎児のために三帰戒を受けているので、非常に参考になる。それで、この一節については、インドにいた或る長者に子供が生まれたが、その子供は母親の胎内にいる間に、三帰戒を受けてくれていたという。そして、その子供が生まれたあと、8歳の時、父母が仏陀を請して家で供養(食事)をしていただいていたところ、その8歳の童子が仏を見て近づこうとした。すると、足許からは華を生じ、大光明もあったという。
自らの異様な様子に満足したその童子は、歓喜して仏に礼拝し、しかもこの時、仏を礼拝することで、無量の罪が滅したという。
さて、ここから知りたいのは、まだ胎内にいた子供のために受けた三帰戒が、生誕後に活用されているかどうかである。上記一節では、明確な功徳があるとは示していないものの、実質的には8歳の時に仏陀に見え、多くの功徳を得たとあるので、多分にこの胎内での三帰戒を受けたことは、これらの善果に繋がったと思われる。
ただし、そのことを本経典では説いていない。何となく、文脈から察せよ、というほどの内容である。こういうのを見てしまうと、胎児に授戒の功徳が届くかどうか、仏教側でどこまで理論化しているか分からないということになる。
なお、この記事で扱っている問題を言い換えると、以下の幾つかの知見を導くことが出来る。
①仏教ではどの段階で功徳が届く「人格」を認めるのか?
②戒の代受を認めるのか?
以上であろうか。特に①の方が難しそうなので、その辺をアビダルマなどで確認すると、また新たな知見が得られるかも知れない。②については、菩薩戒として考えれば、話は簡単だ。
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tenjin95
風月
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