問う、日本の三処に立つる所の戒壇、皆同一なるや。亦た異なること有るや。
答う、東大寺の戒壇、中国の法式に準じて十人受戒を行じて、今も改めず。
招提寺の戒壇、其の義亦た同じ。
東国下野国薬師寺の戒壇、并びに筑紫観世音寺の戒壇、并んで辺国に準じて五人受を行ず。
東国薬師寺の戒壇、中古已来廃怠して行ぜず。
西国観世音寺の戒壇、昔より亦た懈怠せず、永代に之を行ず。
日本、是れ海東の辺国なりと雖も、中国に準じて十人受を行ず。
五天竺国総て是れ中国にして、僧衆極めて多し。是の故に必ず十人受戒を行ず。辺国の僧、希れなるが故に五人を開す。是れ辺国なりと雖も、若し、僧衆多ければ必ず十人を用ゆ。若し僧衆多きに五人を用いること、仏、之を許さず。
凝然大徳『雲雨鈔』、『日本大蔵経』「戒律宗章疏二」巻・748頁上下段、原漢文
東大寺の凝然大徳(1240~1321)による問答体での戒律綱要書である。さて、ここで見ていきたいのは2つである。まずは、日本に存在した戒壇同士の相互関係と、そこで行われている受戒法についての確認である。まず後者の方が話が早いので見ていきたい。ここで、凝然大徳が指摘している「十人受戒」と「五人受戒」というのは、受戒時に受戒を行う戒壇の結界内に存在する比丘の数を表したものである。この辺、例えば以下の記述などが参照できるだろうか。
爾の時、仏、諸比丘に告ぐるに、「四種の僧有り、四人僧・五人僧・十人僧・二十人僧なり。
是の中、四人僧とは、自恣・受大戒・出罪を除き、余の一切の如法の羯磨、応に作すべし。
是の中、五人僧とは、中国に在れば、受大戒・出罪を除き、余の一切の如法の羯磨、応に作すべし。
是の中、十人僧とは、出罪を除き、余の一切の如法の羯磨、応に作すべし。
是の中、二十人僧とは、一切の羯磨、応に作すべし。況んや復た二十を過ぎるをや〈以下略〉」。
『四分律』巻44「瞻波揵度第十」、原漢文
このように、仏は4種類の僧(この場合というか、本来の「僧」とは「僧伽」の意味)があるとし、所属する比丘の人数をもって、四人僧伽・五人僧伽・十人僧伽・二十人僧伽としたのである。しかも、その規模に従って行える羯磨(会議、作法)の内容が異なっていることを示しているのである。
そして、凝然大徳が採り上げたのは、この内「五人僧伽・十人僧伽」となる。特に、「十人僧伽」であれば「出罪(僧残などの重大な罪を犯した際に、それを赦してもらう羯磨)」以外の「受大戒(比丘にするための正式な受戒)」なども含めた一切の羯磨が可能であるという。一方で、「五人僧伽」については、「受大戒・出罪」が出来ないというが、その際に、「中国に在れば」という条件が付いていることが肝心で、この「中国」とは、いわゆる東アジアの中国ではなくて、凝然大徳はインドに於ける五天竺国だと解釈している。要するに、比丘が大勢いるような地域であれば、という言い換えが出来る。
そのような地域にある場合の「五人僧伽」では、「受大戒」が行えない。転じれば、中国ではない辺国であれば、「受大戒」の実施が可能なのである。そして、凝然大徳は、日本はそれが適用されると考えていたようだが、それでも、日本では東大寺及び唐招提寺での受戒には「十人受戒」が適用され、これは中国に準じたものだと誇っているような文章なのである。まず、これは良い。
さて、『雲雨鈔』本文に戻ろう。
この記事で問題にしたいのは、実は戒壇の設置に関する話である。ここで、凝然大徳は、日本仏教に於ける伝統的戒壇(要するに、比叡山に設置された大乗戒壇を除く)について、東大寺・下野薬師寺・筑前観世音寺という3箇所だけではなくて、奈良唐招提寺のも加えているのである。質問には「三処」とあるが、これは、寺院レベルの場所ではなくて、南都・下野・筑前という地域レベルでの数え方であろう。
つまり、凝然大徳は、唐招提寺についてもその戒壇の存在を認め、しかも、鎌倉時代でも機能していることを示している。ただし、ここには少し違和感も残る。後代、日本に於ける戒壇について概論を記述した文献では、ほぼ全てで東大寺・薬師寺・観世音寺しか載せておらず、唐招提寺の名前は見えないのである。一例として、以下の一節を見ておきたい。
天平勝宝六年鑑真入朝し、東大寺に於いて戒壇を建つ。旧僧霊福等、八十人重受し、新たに稟くるは甚夥なり。
天平宝字六年、勅して西の観音、東の薬師の二寺に戒壇を築き、度受すること博し。
延暦二十五年、年度科條を置く。
弘仁十年、最澄法師、上表して睿山に大乗戒壇を乞う。十四年、義真、始めて羯磨を行ず。
長暦の間、慈覚・智証の両徒、争乱す。園城の沙弥、睿壇に昇ることを得ず。三井の明尊、園城の戒壇を奏請す。
長久二年五月、尚書左丞藤経輔に勅して、園城の戒壇、立するか否かを我に宣問せしむ。時に、法相の首・経救、三論の長・済慶、華厳の英・良真、律の師・灌昶、密の主・深覚、咸く表を奉り賛許す。唯だ台徒のみ固執して允さず。爾の後、承保帝、礼部尚書源隆俊に宣して綍を賜給し、園城に戒壇を建つ。法事を行ずるに臨みて、台徒、燬撤し、今に至るまで成らず。
虎関師錬禅師『元亨釈書』巻27「度受志二」
以上は、凝然大徳と時代的に重なる(とはいえ、世代的には1世代くらい後)といえる臨済宗聖一派の虎関師錬禅師(1278~1346)は、上記の通り、戒壇については伝統的な三戒壇に加え、比叡山の大乗戒壇を挙げ、更には、園城寺の戒壇が成立しなかったことを略述されている。
そして、ここには唐招提寺の戒壇を挙げていないのである。その理由について、理解の鍵となるのは「勅」であろうか。ただし、この勅の出典はどこになるのだろうか。少なくとも、この時代を記録した『続日本紀』巻24では触れていない。よって、この辺は更なる個人的な検討課題としておくのだが、少なくとも唐招提寺についてはそのような公式な詔勅などが下りていないものだったということになるのだろう。ただし、南都で戒律復興に尽力した凝然大徳のような立場だと、当然にその存在や機能が認められていたともいえよう。
そうなると、後は唐招提寺での受戒で、「度牒」などが発給されていたかどうかなのだが、この辺は専門的な研究論文などを見ないと分からないかな。
この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
2016年
人気記事