それで、今年はたまたま入手できた『臘八示衆』(貝葉書院・年代不明なるも古い版本)を学んでみようと思う。本書に収録される提唱をされたのは、臨済宗妙心寺派の白隠慧鶴禅師(1686~1769)の弟子である東嶺円慈禅師(1721~1792)のようである。当方では、版本が手に入った御縁を大事に、どこまでも当方自身の参究を願って学ぶものである。解釈についても、独自の内容となると思うが、御寛恕願いたい。
第四夜示衆に曰く、
数息観に六妙門有り。所謂、数・随・止・観・還・浄なり。
息を数へて三昧に入る、是を数と謂ふ。
息を数へて漸く熟して唯ただ出入の息に任せて三昧に入る、是を随と謂ふ。
十六特勝等、要を以て之を言はば、数・随の二字に帰す。
故に初祖大師曰く、外、諸縁を息め、内に心喘ぐこと無く、心、牆壁の如くにして、以て道に入る。
内心喘ぐこと無しとは、根本に依らざるなり。
心、牆壁の如くとは、直向進前するなり。
此の偈、甚深なり。
汝等請ふ、試みに本参の話頭を取て、牆壁の如く、直に進み去れ。
使令、土を以て大地を撃て失すること有るとも、見性は決定して徹せざること無し。努力よや、努力よや。
版本『臘八示衆』2丁表~裏、原典に従って訓読、段落は当方が付す
第4日目の示衆であるが、数息観についての詳しい提唱が行われている。そこでまず、数息観には「六妙門」があるというが、その内容である「数・随・止・観・還・浄」については、既に『修行本起経』巻下「出家品第五」などに「内に安般を思う、一には数、二には随、三には止、四には観、五には還、六には浄」となっていることが分かる。「安般」とは「呼吸を意識する」ことによる瞑想法の1つである。そのための経典『大安般守意経』や『雑阿含経』巻29などがあるけれども、ここでは「六妙門」だとしている。この呼称は中国天台宗の智顗などの文献に見られるようである。
そこで、この提唱では、六妙門の内、「数」と「随」について示された。肝心なことは、「入三昧」である。それから、「十六特勝」についても中国天台宗の文献には見えるが、その典拠は『修行道地経』巻5「数息品第二十三」に見えるのである。結局、本提唱では、数息観について、六妙門や十六特勝について、その主眼は「数・随」だとしている。
それから、後半は初祖大師、つまりは中国禅宗初祖・達磨大師の言葉を挙げているが、典拠は『少室六門』「第三門二種入」や『景徳伝灯録』巻3「菩提達磨章」などが想定されると思うが、「外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道」となっている。要するに、心の働きとして、外側からの影響を止め、内側を安定させれば、その心は牆壁(無機物的)となるので、そのまま仏道に入ることになる、という。
ところで、当方が分からなかったのが、「内心喘ぐこと無しとは、根本に依らざるなり」のところで、「根本」が出ているが、これが提唱の時に加えられた見解である。「根本」に依らないというのは、心の働きが無常であることを示しているのだろうか?それから、「心、牆壁の如くとは、直向進前するなり」の「直向進前」が加えられた言葉だが、内心の乱れが無くなった時、仏道に直向することをいう。おそらくは、特定の行き先を目指すというより、根本無く、混乱無く、という状態であれば、仏道に向かう。
そして、この提唱では、「土を以て大地を撃て失すること有るとも、見性は決定して徹せざること無し」としている。やはり大地を失しても、見性は徹しないことが無いという。ここで、大地という明確な基盤を喪失しても、その奥底に本質として働きが見取されることを指すのだろうか?
この辺は、更に明日以降も学んでいこうと思う。
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