然るに西方の行法、近円を受けて已去て鐸曷攞〈訳して小師と為す〉と名づく、十夏を満つるを悉他薛攞〈訳して住位と為す〉と名づく、依止を離れて住するを得たり、又た、鄔波駄耶と為ることを得る。
凡そ書疏の往還有るには、題して求寂某乙・小苾芻某乙・住位苾芻某乙と云う。若し其れ学、内外に通じ、徳行高く著くときは、便ち多聞苾芻某乙と名づく、僧某乙と云うべからず。
僧は是れ僧伽、大衆と目く、寧ろ一己にして輒く四人と道を容けん。西方、此法無きなり。
『南海寄帰伝』巻3・4丁裏~5丁表、原漢文、段落等は当方で付す
これは、前回の続きなのだが、中国に於ける仏教関係の誵訛問題を義浄が批判しつつ、西方のインドに於ける行法を示している。それで、西方では、「近円を受け」るとあるが、この「近円」について、同じく義浄の訳から「云何が近円なるや、謂わく白四羯磨なり。作事の所に於いて法の如く成就し、将に涅槃に近づくべきが故に近円と名づく」(『根本説一切有部苾芻尼毘奈耶』巻2「不浄行学処之余」)とあって、これが、いわゆる比丘戒(比丘尼戒)の位置付けにあることが分かる。
つまり、比丘戒を受ければ、小師(弟子)になるとし、更にそこから十年が過ぎると「住位」になるという。或いは他の文献なども合わせれば、「和尚」と呼ばれるべき立場となり、依止(修行中、誰かに指導を受けること)を離れて、この後は弟子を取ることも出来る。
それから、手紙などを遣り取りする際に、自称については、その立場ごとに「求寂(沙弥のこと)」といい、「小苾芻」といい、「住位」とも付けるべきだという。更に、修行が進んで徳行が高くなった時には「多聞」と名乗るべきだというが、「僧」とは付けるべきではないという。
日本などでも、いわゆる個人の出家者に対して、「僧侶」と付ける場合があるが、義浄はその辺を批判し、「僧」とは本来「僧伽」であって、意味は「大衆(複数人の出家者)」であるという。つまり、西方では、個人に対しては用いないと断言したのである。
本書・本章を見ていると、義浄が明らかな復古の想いでもって文章を書いていることが分かってくるのである。
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