そこで、今日は本書に見える葬式仏教批判を確認してみたいと思う。
(四二一)問、現時各宗僧侶は葬式を以て欠く可らざる本行となすものに似たり、果して仏説に此の制あるか
答、否、善見律資持記等に依るに、僧の在家の葬事に関するは戒律の厳しく禁ずるところなり、葬事に関するには勿論の事、棺槨葬具を持て寺院の近傍に到るも、また軽垢罪に当れりとなす、仏制既に然り、況んや寺院に於て僧侶自ら在家の葬事を行ふが如きは、固より違法の事なりとす、然るに徳川氏政権を握るに当りて、其の政略上の手段として、寺院に檀越を定め、葬祭に関すること、必らず其寺に於て之を行はしむるの制を立てしより、僧侶自ら之に安んじ、遂に寺院は葬事の式場、僧侶はこの祭官の如き弊を生じ、世之を認め、僧侶自らも亦之を以てその天職とするに至りしは、深く仏制に背くものにして、慨嘆すべき事なりとす、
前掲同著、342~343頁、漢字は現在通用のものに改める
内容としては、各宗派の僧侶が、葬儀でもって「本行」とするようになっているが、それは仏説に従ったものか?と問うている。答えは、『善見律毘婆沙』巻11、『四分律行事鈔資持記』巻下四「釈瞻病篇」等の文献では、僧侶が在家の葬式に関わることを禁止していると示している。よって、仏制では本来、在家信者の葬儀に関わるべきではない、ということなのだろう。ところで、それらの文献にはどう書いてあるのだろうか?
若し檀越、是の言を作す、「今、某国王、某檀越、喪す。今の葬、比丘の送喪を請す」と。去くことを得ざれ。
若し比丘、自ら念いて言わく、「我れ往きて彼の葬を看て無常を観ず、因みに此の故に我れ或いは道果を得ん」と。此の如くして去けば、罪無し。
『善見律毘婆沙』巻11
これを見ると、檀越(在家信者)が、在家信者が亡くなったことを理由に、比丘を呼んで葬儀をしてもらいたいと依頼してきても、比丘は行ってはならないと制している。一方で、比丘が自ら、そのような在家信者の葬儀を見て、自ら無常を観じ、それによって悟りを得たいと願うのであれば、行っても問題は無いとしている。
まずは、ここを問いへの回答の基準としている。
ところで、『五百題』では徳川氏政権の宗教政策をもって、日本では寺院に檀越(いわゆる檀家制度)を定め、そして、葬祭に関してはその所属した寺院で行うことになったため、僧侶も民衆も、葬儀を寺院での重大な宗教行為として認めたという。しかし、本書ではそれを仏制に反することであり、深い憂慮の念を示したのである。
つまり、本書では一応、用語としては見えないが、「葬式仏教批判」の立場にあったことが理解出来そうなのだが、実はそこまで単純な話でもない。時代的には、「新仏教運動」が起こり始めており、この翌年に『新仏教』が創刊されていくのだが、本書はその影響があると見て良いのだろうか?当方ではまだその結論を得ていない。また、この記事に続く次の項目では、在家信者への葬儀を否定していないようなのである。その項目については、また別の記事にしてみたい。
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