九月十五日、宝篋印塔を建つ。
『洞谷記』「元亨元年の記録」
この「元亨元年」とは、西暦に換算すると1321年となり、この年に瑩山禅師は能登永光寺に宝篋印塔を建てたという。で、この「宝篋印塔」というのは、『宝篋印陀羅尼』という密教で用いる陀羅尼を収めた塔のことで、供養塔などの機能を持ち、墓碑塔としても建てられたという。中国で、南方の呉越王・銭弘俶が八万四千塔を建立したという伝説があるそうだが、これを真似した日本でも同様の様式が定まったという。
それで、拙僧自身、このことを余り良く分かっていなかったので、文献的にも探ってみようと思う。
忠懿、天性誠厚にして、夙に仏を敬うことを知る。阿育王の八万四千塔を造りたるを慕い、金銅を精鋼し冶鑄して甚だ工する。中に宝篋印心呪経を蔵し、亦た八万四千数に及ぶ。
『仏祖統記』巻10
なお、冒頭に出ている忠懿というのが、呉越王のことである。このように、インドで阿育王(アショーカ王)が八万四千塔を建てたことを慕って、金属を用いた塔を作り、その中に『宝篋印陀羅尼経』を納めたのであった。然るに、このような「陀羅尼」への信仰は、何が典拠になっているのだろうか?
この不空訳『宝篋印陀羅尼経』を読んでいたら、以下の一節を見付けた。
爾時、金剛手菩薩、仏に白して言く、世尊、若し人有りて此の経を書写し、塔中に安置すれば、幾ばくなる所の福を獲ん。
仏、金剛手に告ぐるには、若し人、此の経を書写し、塔中に置く者は、是の塔、即ち一切如来金剛蔵卒堵波と為す。
同経
なるほど、本経に於ける対告衆である金剛手菩薩が、この経を書写し、塔の中に安置すれば、どれほどの功徳になるものか、と話すと、仏は、「一切如来金剛蔵卒塔婆」になると答えた。つまり、あらゆる仏の功徳が詰まった塔なのであり、人間界の浅はかな思慮で図ることが出来るような功徳ではない、ということになるだろう。
そうなると、瑩山禅師もそのような功徳を期待して宝篋印塔を建てられたのだろうか?古写本『洞谷記』にも収められている「洞谷十境」偈というのがある。これは、瑩山禅師が永光寺の名物となる十地点について、偈頌(漢詩)を詠まれたものであるが、その中に、以下のような一節が見える。
烏石谷〈西の山下に在り、神物護持す、邪魔するは親しからず、人法繁昌して、事理円通す、今は宝篋印塔を建て、山下の福業に倍せり、昔、烏帽子を立つ、今、石を怪しむ〉
烏石谷とあるが、烏とは黒い鳥を指すことから、黒い石が目立つ谷だった、というべきか?それとも、「烏帽子」の話が出ているので、それに似たような石があったのか?であろう。そして、元々その谷は、神やその眷属が守っていたようだが、その結果、永光寺では人も法も繁盛し、理想と現実と、その両方に功徳が満ちているという。しかも、宝篋印塔も建てたので、洞谷山下に比べて、その幸せは倍増しているともいう。
あ、なるほど、この偈頌は元亨元年9月よりも後に詠まれたのか(『洞谷記』の並びからは、元亨3年12月?)。でないと、「宝篋印塔」の話が出てこないからな。
さておき、瑩山禅師の「福業」とは、「人法繁盛」であろうから、結果として良い修行が進むことを願って、寺内にこの塔を建てたことが理解出来よう。
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