復た次に、仏の在世時、三蔵の名、有ること無し、但だ持修多羅比丘・持毘尼比丘・持摩多羅迦比丘のみ有り。
修多羅とは、是れ四阿含中経の名、摩訶衍中経の名なり。修多羅、二分有り。一には、四阿含中の修多羅、二には、摩訶衍経を名づけて大と為す。修多羅、二分に入れ、亦は大乗、亦は小乗なり。
二百五十戒、是の如き等を、名づけて修多羅と為す。
毘尼、比丘作罪と名づけ、仏、戒を結ぶ。応に是を行ずべし、応に是を行ずべからず。是の事を作せば、是の罪を得る。
龍樹尊者造・鳩摩羅什三蔵訳『大智度論』巻100
以上である。ちょっと分からない箇所もあるのだが、一応、訓読すると以上のような感じかと思われる。
それで、意味しているのは、釈尊の在世時には、三蔵という名称が無かったということである。これは、要するに釈尊入滅後に仏典結集を行って、経蔵・律蔵を編み、更にそれへの註釈として、論蔵が構築されていったことを意味する。ところで、『大智度論』では、釈尊の在世時には「持修多羅比丘・持毘尼比丘・持摩多羅迦比丘」がいたとしている。
なお、これは『十誦律』などにも繰り返し登場しており、なるほど、確かにこの三種類の比丘がいたということか、それとも、一部の部派では、そのように伝承したか、である。大乗経典だと『大悲経』に見られる。
ところで、この三種類の比丘だが、持修多羅比丘は、釈尊の教えを憶え、実践していた比丘であろう。持毘尼比丘は、釈尊が定めた律(毘尼)を憶え、実践していた比丘であろう。問題は、持摩多羅迦比丘なのだが、訳語の問題もあるようだが、以下の一節を見ておきたい。
阿毘曇とは、名の別に四有り。
一には優婆提舎と名づく。
二には阿毘曇と名づく。
三には摩徳勒伽と名づけ、亦た摩多羅迦と云う。此れ正一名なり。是を伝うるに音異なれり。
四には摩夷、優婆提舎と名づく。此れ正名論なり。諸法を論ずるが故に。
慧遠『大乗義章』巻1
さて、以上の通りだが、今回見ている「摩多羅迦」は3つ目の名前として出ているが、音が異なったものとしている。ただし、本書がどの辺からこの見解を持ってきたかが分からないのである。とはいえ、慧遠は阿毘曇(阿毘達磨)として捉えていることだけは理解出来よう。
『大智度論』が、先に挙げた見解をどのように構築したかが気になるのだが、既に述べたように、一部の経律に「持修多羅比丘・持毘尼比丘・持摩多羅迦比丘」が見えるため、その結果、「三蔵」はまだ無かったが、実質的に関連する文脈自体は、教団内で保持されていたという見解だったことが分かる。
確かに、「阿毘達磨」も、古い伝承を持つものになると、註釈したのは釈尊の直弟子だったことが分かるので、齟齬は無いと見るべきなのだろう。
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