つらつら日暮らし

巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑨(令和6年度臘八摂心短期連載記事9)

拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。

身心自然脱落本来面目現前 註下して落草せん鳫に遺蹤の思無く水ニ沈影の意無し、脱はもぬけると云心、落は洒落と云てさつはりとしたこと看よゝゝ、身心の二つともに見たり聞たりの処、自然天然にさつはりと脱洒して鏡に物の移る如く妍醜分明に分れども、少も跡を不留、さつはり影の打払が如くじや、二六時中漢去り胡来る、是を本来面目現前と云、然ども柳は緑花は紅で現成其侭あらはすに無処と云て置れまいぞ、三十棒じや、自然ゝゝの臭味有れば自然の脱落でない、自然の二字甚だ大難、高く着眼
    6丁表


いわゆる坐禅の功徳を明示した箇所ではあるが、この「脱落」の意味は、面山禅師『聞解』を承けている。その上で、「二六時中漢去り胡来る、是を本来面目現前と云、然ども柳は緑花は紅で現成其侭あらはすに無処と云て置れまいぞ、三十棒じや」の部分は、巨海禅師の教えだと見て良い。「本来面目」について、現実そのものを見ていくことの重要さが示されていて、これはその通りである。

結果として、「自然ゝゝの臭味有れば自然の脱落でない、自然の二字甚だ大難、高く着眼」という説示もまた重要である。「自然」だという言葉に、臭味があれば脱落が不自然となる。余程、注意しなくてはならない、というよりも、脱落とは「手を放つ」ことだと気付かねばならない。握っていては、脱落とはならないのである。

欲得恁麼事急務恁麼事 上如是なることを得んと思ならば勿由断、急に恁麼の事を勤てさし置まひぞ、恁麼の事とは身心――現前じやと斗り言て置くまひ会也ゝゝ
    同上


いわゆる「恁麼事」についての説示である。これは、特段いうまでもないが、雲居道膺禅師に於ける「四恁麼(欲得恁麼事、須是恁麼人。既是恁麼人、何愁恁麼事)」から示された教えである。そういえば、天福本『普勧坐禅儀』は「恁麼事」では無くて「恁麼」となっている。また、流布本は末尾に「久為恁麼、須是恁麼」があるが、天福本には無い・・・といった原典の比較は、本書では一切行われていない。

「恁麼」とは、「この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ」である通りなので、無上菩提からの学びをこそ、坐禅とはいうのである。詳細は、後の機会に見ておきたいと思う。

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