福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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余話・渋沢栄一の生涯(15話) パリで渋沢栄一大政奉還を知る

2021年08月16日 | 渋沢栄一の生涯
余話・渋沢栄一の生涯(15話) パリで渋沢栄一大政奉還を知る   
伊能忠敬研究会東北支部長 松宮輝明
渋沢栄一の生涯「青天を衝け」の連載を中断し、4月より「新型コロナウイルスを歴史に学ぶ」を6月29日(月)まで連載しました。
「青天を衝け」は、令和3年の大河ドラマとして、新一万円札の顔となる実業家、渋沢栄一の生涯を放映します。渋沢を演じるのは、人気は俳優の吉沢亮です。
本日より、渋沢栄一の「青天を衝け、渋沢栄一」を掲載いたします。
渋沢栄一は、天保11年(1840)年2月13日、埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれ、家業の畑作、藍玉の製造、販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から学問に励み、従兄弟の尾高惇忠から「論語」などを学びました。
「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄たちは、高崎城乗っ取り、横浜街焼き討ちの計画を立てたが中止し、京都へ向かい、一橋慶喜公に仕え、一橋家の財政再建などに実力を発揮し、認められていきます。
栄一は27歳の時、15代将軍徳川慶喜公の実弟、水戸藩主、徳川昭武公に随行しパリの万国博覧会に赴き欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の仕組みを学びました。
戊辰戦争で明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わります。「第一国立銀行」、株式会社組織による企業の創設、育成に力を入れました。「道徳経済合一説」を説き、500余もの企業に関わり、600余の教育機関、社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力しました。
「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、ノーベル平和賞の候補に2度選ばれています。
慶応3年(1867) 27歳の渋沢は徳川昭武公に従ってパリ万博使節団としてフランスへ出立しました。
大政奉還、王政復古となり、明治元年(1868) 、明治維新によりフランスより帰国し、静岡で慶喜公に面会しました。
渋沢の航西日記には「明治元年戊辰1月幕府亘解ノ報相踵イデ到リ、衆皆愕然タリ。3月21日附朝廷ノ帰朝命令到ル」と記録しております。
 慶応3年の10月中に、京都で、徳川慶喜公が政権を返上したといふ評判がフランス国の新聞で知りました。旅館内外の日本人は勿論、徳川昭武公附添のフランス国士官でナポレオン三世から遣はされ、常に旅館に止宿して学問の世話をしていたコルネルビケツトも、大政奉還は皆虚説であらうと、一向に信じませでした。
渋沢は京都の有様は余程困難の状況にあり、早晩大政変があるに相違ないと思っておりました。新聞報道はまちがいない論弁しました。翌年の1月頃になると、フランス国から報知があり、去年の10月12日に、将軍家には政権を朝廷へ返上し、朝廷もこれを御聞届になり、薩摩と長州とが、一致して幕府を治める有様であり、此上は一層急変を見るであろうと憂慮して居る中に、3、4月になると、正月の始に鳥羽伏見口で幕府の兵と薩長の兵と戦をはじめ、幕兵が敗走し、将軍家は大阪城を立退かれて、海路より江戸へお帰りになり、謹慎恭順の御趣意を幕府の諸士へ示され、水戸へご退隠になったと知りました。数千里を隔てた海外に在って、かかる大政変を聞きおよび心中は、言語に絶した次第でした。渋沢は、日本国の政変知り帰国を急ぎます。
東京都王子、飛鳥山の渋沢栄一記念館も新型コロナウィルス感染症防止のため、4月から臨時休館しておりましたが、7月3日(金曜日)より開館を再開いたしました。



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