福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

青天を衝くー渋沢栄一の生涯 新型コロナウイルスを歴史に学ぶ

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松宮輝明・戊辰戦争の激戦地を行く(13)

2017年05月28日 | 水戸藩の高炉と三春藩士熊田嘉門
阿武隈時報新聞掲載
2008、8月6日(水)




福島民友新聞掲載
2017,5月27日(土)



◎戊辰戦争大砲の砲弾(松宮家所蔵)
 重量 4.3キログラム(鉄製) 円周36.3センチ 半径5.8センチ


筆者の高曾祖父松宮雄次郎直秀は、北越戦争で西軍と戦いました。弥彦村観音寺の松宮屋敷は東軍の本陣となり200余名が常駐した。
慶応4年7月25新政府軍が新発田藩の手引きで大夫浜、松ケ浜に上陸する。
聚義隊(観音寺隊)は同盟軍と背後から新政府軍を攻撃した。

7月29日長岡城再落城する。同日新潟も占拠される。
     松宮雄次郎は総退去命令を海岸山田の塁で聞く
8月1日同盟軍は一斉に退去

8月2日午後3時、新政府軍は聚義隊の松宮雄次郎宅や雄次郎の弟松宮龍太郎宅を放火全焼させる。
 
    松宮龍太郎は弥彦村走出庄屋で、松宮雄次郎の弟
    慶應4年8月2日方義隊の斥候が見に来たところすでに走出村の庄屋松宮龍太郎宅は焼かれていた。


8月4日方義隊は松宮屋敷から和銃67挺を押収し与板藩に収める。弥彦村村史によると8月4日松宮屋敷の捜査が
    行われ鉄砲、刀、槍、薙刀等多数の武器類を押収したとある。

8月16日松宮雄次郎隊会津軍と共に新政府軍と赤谷方面で戦う。

9月 6日雄次郎隊会津軍共に会津城下北側で新政府軍と戦う。

9月12日聚義隊・雄次郎隊は土湯口から戦線を離脱して、米沢藩の荒井村陣地に雄次郎隊47名が出頭し武装解除す
     る。その後矢嶋田村へ移り謹慎(米沢図書館蔵・越後機事堯録)

12月 聚義隊・松宮雄次郎他越後に送られる。











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