福島の焼き物と窯、戊辰戦争の激戦地を行く

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福島の焼き物と窯「ふくしま県内の窯と東北の窯」(1)

2021年04月12日 | 福島の焼き物と窯
福島県内の窯と東北の窯(1)

福島県内においても、全国的な焼き物の需要が高まり、その影響を受け、1640年代には本郷焼と相馬駒焼が始められた。本郷焼は、美濃の国(岐阜県)からやってきた水野源左衛門をその祖とし一方、相馬駒焼は京都の名工、野々村仁清に師事した相馬藩の藩士田代源吾衛門をその祖として発展を続けることになる。
もともと本郷焼は陶器が主流であるが、寛政12年(1800年)には、佐藤伊兵衛が西国(有田)で修業し帰国し白磁を焼くことに成功している。この二つの流れはやがていろいろな形で県内に波及し、ことに染め付け磁器はやがて本後焼きの主流になる。
また、江戸末期になると、本郷焼きの磁器の影響を受けて、会津若松の木村左内による蚕養焼(こがいやき)、長谷川兵夫による郡山市湖南町福良の福良焼、長沼町の矢部富右衛門による長沼焼などが生まれて来ることになる。
相馬駒焼は代々藩主の使う焼き物だけを焼く東北最古の登り窯であり、元録3年(1690年)頃になると、藩の殖産興業の一貫として民窯が相馬藩の中に広がり、大掘相馬焼が生まれた。この時代、還元炎焼成は行われず、黄瀬戸風の肌の合いに彩画した絵付けには芸術性の高いものが多い。また、東北の各窯場に影響を及ぼした。久慈焼(岩手県)・白岩焼(秋田県)また笠間焼(茨城県)益子焼(栃木県)等の各窯場にもこうした技術が導入され、強い影響力を及ぼした。
久慈焼は岩手県久慈市小久慈町の日常実用の陶器である。初代熊谷甚右衛門は相馬駒焼の田代窯に稲技を学び、1822年(文政5年)ころ帰国して窯を開いた。以後父子相伝で続けられる。
秋田県の白岩焼は楢岡焼と同系の「なまこ釉」が有名である。
現在の楢岡焼の窯元に尋ねると相馬焼との関係については「およそ百年前、半農半陶の民窯で飯鉢・片口・甕・すり鉢などを焼いた。相馬焼の技法をとりいれて楢岡焼き・白岩焼きが生まれた」との言い伝えではっきりしたことは解らなかった。
平清水焼は、山形県平清水の窯場である。窯場は千歳山の麓にあるところから千歳焼とも呼ばれた。文化年間に同村の丹羽治左衛門は陶業を始めようと隣村に済んでいた常陸の国の小野藤兵衛を招き、丸山の土で陶器を作った。1825年(文政8年)は相馬の安部覚左衛門を招き新窯が開かれた。昭和の初期には上り窯9、角窯3、上絵窯3があった。現在の窯元数は震災後の状況が把握できず解らない。
現在の平清水焼の青龍窯は丹羽治左衛門を祖とする。昭和60年代に当主の丹羽  氏にお目にかかると、「うちの窯は相馬焼きの技法であったが、長い歴史を経て、今の平清水焼は千歳山の陶石を使い、水簸して、梨地肌の半磁器をつくつています」との話しを伺った。梨地肌の壺はしっとりとした肌合いで手元に置きたい焼き物である。
成島焼きは山形県米沢市広幡町で水甕・片口・平鉢・飯茶碗などの黒釉の焼き物を焼いた。江戸時代に相馬駒焼きより技法が伝授されたという。
天保年間越後の国蒲原の二村為八は相馬焼の技法を習得して帰り、三根山藩の御用窯が生まれた。
東北の焼き物は宮城県中田町の「東北陶磁器会館」みることが出来る。
この陶磁器会館は東北大学の芹沢啓介先生のコレクションを元に収集し展示している。東北一の史料館でもある。



◎昭和60年代に執筆した「福島のやきものと窯」

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