六十谷駅の高架下を東に抜けて歩くと千手川があり、その川沿いの東側に石碑と地蔵尊が見えて来る。
千手川
石碑と地蔵尊
直川名号石碑と地蔵尊
直川名号石碑
直川名号石
名号石は文政十二年(1829年)三月に高僧是徳上人を慕う人々によって建立された。上人が宗教の布経に勤められ、遠近の人々に上人の徳を慕い信仰に拠り所となるように正面に是徳上人の自筆による名号の六文字と上人が常に肌身離さず奉持していた仏舎利を頂上に納め、下の基礎には多数の信者が願いをこめて小石に名号を書いて埋め皆の健康と幸せを祈願した。(説明板より)
説明板
大福地蔵菩薩(左)・難除地蔵菩薩(右)
大福地蔵菩薩
名号石を建てた時に人々の健康と幸せを願って地蔵尊を建立されました。人間が幸福になる健康と福と知恵を授けてくれるお地蔵さんです。(説明板より)
難除地蔵菩薩
昭和二十七年の大水害の時、どこからと無く半田氏の敷地に流れ着きこの地区の大水害を最小に守ってくれました。人々の災難を取り除いてくれるお地蔵さんです。(説明板より)
地蔵菩薩御真言
おんかゝかび さんまえい そわか
名号石
参考:
是得上人は宝暦13年(1763)、徳本上人と同じ和歌山県日高郡に生まれ、江戸の増上寺回向院の第十三世となった。
文化元年(1803)、勝尾寺(大阪府箕面市)で徳本上人の弟子となって諸国を行脚し、各地で念仏を説いて来た。こうした行脚により、各地で多くの信者や後援者が出来た、その業績を偲んで号碑を建てられたと考えられる。
是得上人は文化9年(1812)に和歌山市直川是得庵を建立し、文政7年(1824)6月21日、大阪市内において61歳で亡くなり、直川に葬られたそうだ。
近くの民家の軒下に咲いていた寒白菊。
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