熊野古道は、鳥羽離宮から淀川を下り、摂津の窪津で上陸、河内国、和泉国を通り、紀伊路を南下。中辺路、大辺路との分岐点である田辺市を経て熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)に至る古道です。
熊野詣でが盛んな平安時代後期(1300年頃)、その道筋に熊野権現の分神が祀られていた。これを「王子」と言い、浪速から熊野の間に置かれ、総評として「九十九王子」と呼ばれています。
これから巡る「九十九王子」は、熊野三山に至る熊野参詣道のうち、田辺から本宮、新宮、那智に至る山岳路で「中辺路」と呼ばれ、特に平安時代から皇族貴族が幾度も繰り返した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道となったそうです。
その当時の旅は、長く険しい山道を越えるだけでなく、水垢離をして心身を浄めながら、ひたすら熊野の神々や仏の救いを心に念じ熊野三山を目指すもので、山岳修行色が極めて濃厚であったそうです。
和歌山市在住の私にとっても中辺路は遠くて険しい山道を越える山岳の参詣道。のんびり期間(元年~2年?)を掛けて、出立王子から熊野三山までの各王子社跡と近隣の見所を散策して行きたいと思います。
建仁元年(1201)の御幸記では後鳥羽院に同行した藤原定家が不覚にも風邪をひき、出立での潮垢離を辞退したところ厳しく叱責され、やむなく潮浴びをしたと伝えられているそうだ。
鬪雞神社
白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請し「権現さん」とも呼ばれているそうだ。
熊野三山の別宮的存在で、熊野参詣の折には鬪雞神社に参拝して心願成就を祈願した。また、この神社に祈願して、三山参詣に替えたという伝承もある。
熊野別当湛増が源平合戦の出陣にのぞみ、源平いずれに味方するかで紅白の鶏を戦わせた故事にちなみ、現在では鬪雞神社と呼ばれている。
道分け石(道標)
中辺路・大辺路への分岐点となり、商店街「北新町」にある道標。北面「右きみゐ寺」西面「左くまの道」が読み取れる。(中)
その他、本町陶器屋敷地内(左)、下万呂近郊「コーナン田辺店」付近にある道分け石。(右)
秋津王子跡
熊野への参道は時代によって変遷する。これは洪水等の影響で河川の流れが変わったりする事にもよる。 この辺りを流れる会津川付近では度重なる洪水があったようである。
秋津王子は秋津の地にある王子であるが、秋津の古い場所は確定できていないそうだ。
万呂王子跡
熊野橋から50mほど北の梅畑の畔に標柱が立っていた。
藤原定家の御幸記に秋津王子に参った後、「山を超えて丸王子にまいり・・・」とあるそうだ。此処も度重なる洪水等で万呂王子も流されてしまったようである。明治10年に須佐神社に合祀され、その後は田畑になったそうだ。
左端の電柱前にあった史跡説明板が昨年の台風以降に無くなってしまったようである。
三栖廃寺塔跡
万呂王子跡から古道を進む途中で左へ坂を上ると三栖廃寺塔跡の建物と説明板が立っていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます