今日も教会は祝福だなと思わされました。
ふら〜っとずれそうになる私を戻してくれるというか。寝ぼけてる私の目を覚ましてくれる感じで守りです。
メッセージもほんとドンピシャ。
聖書のノアさん、100年約束の成就を見るのに試され続けた人なのは分かっていたので、その名前をこの時代に与えられた私はそういうところを通るのだなとは分かっていたのですが、最近時間や実際面を見てボヤきそうに…忍耐切れしそうになってたなと。いかんいかんです
あと、奉仕は喜んですることが重要だってことも、ほんと基本なのですが、はっとさせられました。
最近これを担うのはどうなのか…というチャレンジがまた来て、自分の中では気持ちが伴わず。でも神様に聞いてて。そしたら礼拝の中でその奉仕をするように導かれているのだなと分かりました。自分ではできないと思ってたんですが、神様に頼ってなかっただけで神様がなされるので心配するには及ばないのでした。
私は能力があんまりない人間なので、ふさわしくないのになぜ私がこれを…と思うことが多いのですが、いや、むしろ神様の働きのためにはふさわしいのだと最近思えるように。よりできない何もない私が神様に従ってやれば神様の栄光はより顕著に表されるから。だから私は自分のできなさや弱さをむしろ喜んで神様に差し出せばよいのだと納得。
神学校のメッセージでも、困難問題を感謝し楽しむと言われていて、楽しむ…?まではいけてなかったわ私…と思わされました。でも同じように、こんなマイナスを神様はどれだけプラスに変えてくれるんやろかと楽しめるようになりたいなと思ったのであります。
取り留めない感じになっちまいましたが、できないありのままの私に神様の素晴らしが表されるならそれは素晴らしいことなのだと思いました。
そう、どんだけ出来なくとも神様の目には最高に作られてる。だから最高しかないのです
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