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ギリシャふらり旅③ 

2024-12-23 | 旅行

12月12日 今日は、ペロポネソス半島への現地ツアーに参加。

ペロポネソス半島は、アテネからは100キロ以上離れており、かなり地方度が高く、半島全体で人口も150万くらい。交通の便が悪いため、効率的に回るべく現地ツアーに参加。ミケーネ、ナブフリオ、エビダウロスを一日かけて回るもので、50€。すごく効率的である。これ以降は現地バスを使ってまわってみた経験からすると、ギリシャをうまく回るには現地ツアーバスで選ぶのがよいと感じる。

シンタグマ広場を8時20分に出発して、まずは最初の目的地、コリントス運河へむけてバスは走る。ピレウス港からは一昨日のアポロン海岸とは逆に、北上しそのまま西進する。しばらく進むと左側にサラミス湾、サラミス島が見えてくる。紀元前480年、テミストクレスに率いられたアテネ市民はアテネを捨てサラミス等に避難し、アテネを中心としたギリシャ海軍がサラミス湾に集結し、狭い湾内にペルシャ海軍を引き寄せ、市民で構成するギリシャ艦隊は小回りが利くので、奴隷を漕ぎ手とする大きくて小回りの利かないペルシャ海軍を包囲し、壊滅的な打撃を与えた。いわゆるサラミスの海戦である。ペルシャ王のクセルクセスはこの敗戦によりその年の制圧をあきらめ、ペルシャに戻った。ギリシャペルシャの戦況を一変させた世紀の海戦のまさに舞台が目の前に広がっている。いまは、きもちよく高速道路で通り過ぎてしまうが、当時のことに思いをはせることができた。

<サラミス島とサラミス湾>

1時間ほどでコリントス地峡につく。コリントス地峡、イストモス(地峡)は、ペロポネソス半島の付け根にあって、ギリシャ本土との間を7キロ距離の陸地であったのを、19世紀に末掘削してイオニア海とアドリア海につながるコリントス湾をつないだもの。三大運河とガイドは言っていた。スエズ、パナマ、コリントスだそうだ。古代のコリントスはこの中継地としてペロポネソス半島側で栄えたが、さすがに運河は作れなかったようで、当時は陸路で運んでいたという。高さは80m幅23mあり、垂直に堀り込んだのが橋の上からよく見える。いまは、バンジージャンプの名所となっているようで、勇気があれば体験できるのかも。ちょっと無理だな。ペルシャ戦争時、クセルクセスの率いるペルシャの大軍が進行してきたとき、どこで防衛線を張るかの議論をした時、イストモスに引くべきとの意見を抑え、アテネの意見に従い、スパルタ王のレオニダスが300人のスパルタ兵を率いてテルモピレイに出撃する。そんなことも思い起こさせる。

<コリントス地峡>

コリントス運河

コリントス地峡で休憩の後、バスはペロポネソス半島へはいる。風景は岩山とオリーブやオレンジの灌木畑以外は、荒れた岩場が続く。古代もこんな風景だったのだろうか、よく見ると、たまには岩場に石垣とか見えるので、かつては農地だったのかもしれない。しかし、ギリシャは、紀元前7世紀頃に記述した「労働と日々」という農業書には禿山になっており痩せているようなことが期されていたような。そのころからはげ山は問題だったのかも。痩せた豊かでない土地であることは日本の農村風景とかと比べれば一目瞭然かも。しかし、降水量が少なく灌漑が必要な乾燥地域で文明は発展しているので、だからこそ文明がここに築かれたのかもしれない。と娘が言っていた。その通りだな。

バスで1時間くらい進んだかな、高速を離れ、山に向かって進んでいく。標高は200mくらいの丘の斜面にミケーネ遺跡が山を背景にした丘の上に広がっていた。こんなところにか、というような場所である。

遺跡の最も近い集落(といっても50軒くらいだろうか)のところにローカルバスは停まるようだが、そこからさらに山を登って車で15分くらいのところに遺跡はある。駐車場から遺跡が見えて、丘を包むように城壁がありその上に石組みが見渡せる。山を背景にその懐の丘の上全体がミケーネ城というべきか。駐車場わきにカフェがあるほかは何もない。

入場料は冬季半額の6€。天気も良く東京よりも暖かいギリシャはこの季節がよいと感じる。遺跡に向かい歩いて城壁にいきつき、城壁沿いにいくと有名な獅子門、ミケーネの象徴だ。門の上には顔は失われたが2頭の獅子が向き合い出迎える。3500年前の遺跡だが状態はとてもよく、往時をしのばせてくれる。しっかりした石組みであり、石の重さを程よく分散しておりその技術の高さがうかがえる。

<ミケーネ全景>

ミケーネ全景

<獅子門>

獅子門

門をくぐると、すぐに円形の遺跡。ここは王の墓と呼ばれる王家の集団墓の跡である。シュリーマンがあげ「アガメムノンのマスク」と名付けた有名な黄金の仮面が出土したところである。現物は、アテネの考古学博物館に所蔵されているという。アガメムノンは。ホメロスのイーリアスにでてくるトロイ戦争のギリシャ側の総大将である。しかし、アガメムノンがいたと考えられる紀元前12世紀よりも古い時代のものだそうだ。しかし、シュリーマンの情熱とロマン、見つけた時の興奮は尋常でないだろう。アガメムノンのマスクとして考えるのは素敵なことだ。直径は10m以上はある大きなもので、王宮に向かう城内の一等地に王墓があるというのは珍しい。当時のミケーネ人の死生観なのだろうか。

<王墓>

王墓

ミケーネは、神話では、英雄ペルセウスが開いた国である。ペルセウスは、ミケーネの南10キロくらいのアルゴスの王女とゼウスの子。成長して、兄に見た人を石に変えてシまうという魔女ゴルゴン姉妹、メドゥーサを討伐を命じれ、神々の与えた盾を手にし討伐に成功する。今度は、その頭を持って、巨人アトラスを石に変えてあげて苦行から解放しアトラスは山となりアトラス山脈とした、さらにはエチオピアにわたり王ケフェウスと王妃カシオペアの娘である王女アンドロメダをメドゥーサの頭を使ってお化けクジラから救出する。そして、ようやくアルゴスに帰り、ミケーネで王国を開いたという話である。相当端折ったがこの英雄譚は、どれも星座にもなっているし面白いが、省略しよう。そのペルセウスから数代後の王がアガメムノンである。とすると、アガメムノンのマスクとするよりペルセウスのマスクのほうが近いのかもしれないなあ。

さらに王墓から急坂を登っていくと頂上にでる。正面の城門跡があり、王宮跡が広がっている。王宮のこの地区は、360度の眺望があり、北から西にかけては緩やかな丘をなす陸地が広がり、南には遠く20キロほど先の海を臨むことができる。この丘から豊かであったで陸地を、そしてエーゲ海を行きかう交易船でにぎわう風景が広がり、ミケーネの繁栄の姿が想起される。いまはすっかり田舎だが、それがかえって当時を容易に想像できるのはとても楽しい。

<王宮跡>

王宮跡

王宮はいまや石垣しかのこっていないが、クノッソスに近いような構造に感じる。クノッソスには城壁がないが、ミケーネは丘を巡る周囲をしっかりした城壁が取り囲んであり、ギリシャ本土での戦争は絶えなかったのだろう。王宮の裏手には、井戸があり、この丘の上の乾いた土地であるが、水は自給できたようだ。大きな井戸のほか、階段を下っていった裏井戸のようなものも今も残されている。獅子門とは反対側の山側には裏門があり、簡素であるがしっかりした石を据え付けた実用的な門が残っている。3500年前と思うとすごいものだ。遺跡に併設して考古博物館が併設されている。主要な遺物はアテネにあるが、そのレプリカや豪華な工芸品や赤と黒で彩色された土器などの出土品や、線文字B記録された粘土板が展示されており、ミケーネ文化の豊かさを思うことができる。クノッソスとは平和的で牧歌的な穏やかな雰囲気とは異なり、馬とか兵士とかが絵柄には多く見られ、勇壮な好戦的なこの文明の性格を表しているのだろう。

<裏門>

裏門

宮殿跡から少し離れたところに、アガメムノンの倉庫がある。入場券はミケーネ宮殿と共通である。山をくりぬき、石垣でくみ上げた入口にむけ羨道を進む。巨大な空間が広がっている。その入り口の石組みは、三角形をうまく配置してあり羨道から入り口、門まで、重量をコントロールする設計である。いまはただの石組みがあるだけだが、復元をみるとこの参道や入口は彩色され美しいものだったようだ。中は巨大なドーム状の空間が広がり、奥にはもう一つ部屋があり、その奥部屋は王の墓として使われていたらしい。たしかに、豪華な入口と広い空間、アガメムノンの倉庫と名付けられているように、紀元前14から12世紀ころまでミケーネ文明後期の中心であるここにはミケーネの繁栄を支える多数の豪華なものが収納されていたのだろうか。

<アガメムノンの倉庫>

次に向かったのは、独立ギリシャ最初の首都であったナブフリオである。1821年から始まるオスマントルコの支配から独立運動がおこり、紆余曲折あるが、1830年に独立が承認され、初代大統領カポディストリアスがここナブフリオを首都に定めた記念すべき地である。その記念碑が港に建てられている。オスマントルコ以前は、第4次十字軍以降はベネチアが支配しており、港にはベネチアの要塞、海辺、そして街を見下ろす山上には立派な要塞が今もそびえている。ベネチアの支配が終了したのはクレタと同じく17世紀末、クレタと異なり駐屯兵も少なく堅固な要塞はあるものの、大した抵抗もなくベネチアは撤退した。さて、初代大統領カポディストリアスは派閥対立もあり翌年にナブフリオで暗殺された。列強は王国として国王をバイエルンから送り込み、翌1832年にはアテネを首都に移された。わずかの期間の首都であるが、最初の首都としての誇りがあるようだ。

<ナブフリオンのベネチア要塞>

ナブフリオに向かう途中、手前10キロくらいのところに、ミケーネ時代の中心都市のひとつティリンスの遺跡を通過した。立ち寄らなかったが高さ10mくらいの丘を城壁でめぐらした都市であったようだ。ティリンスもミケーネも、紀元前にドーリア人の侵略により滅ぼされ、その後復興することがないので、立派な城壁が残されており、ミケーネ時代の遺構があるようだ。

<ティリンス遺跡>

ティリンスの遺物は、ナブフリオ市内にある考古学博物館に収められている。2階部分の小さな施設である。入場料は3€。主なものとしては、ティリンスで出土した青銅の甲冑が一そろい展示している。兜はイノシシの牙で飾られており、一つの兜で40頭分あるという。猪の勇猛をうけつぐ戦士の意気込みを表すものなのだろう。こうした武具からも好戦的な海洋民族の姿が感じられる。

<ナブフリオ考古博物館 ティリンスの甲冑と陶器>

ティリンスの甲冑

14時を過ぎ、ようやく昼食タイムである。海辺なのでここは海鮮だろう。港沿いにレストランが軒を連ね、それぞれが海に向かってテラス席を設けており、いい感じである。冬なんでちょっとリゾート感はかけるが、暖かい季節はさぞにぎわうことだろう。

レストランにはいり、今度はタコのグリルを注文。前菜によくわからないパスタを注文してみた。タコは、オリーブオイルでグリルしており付け合わせもあり足一本だが満足である。前菜であるはずのパスタは、チーズたっぷりでゆうに一人前はあるので、おなか一杯になってしまった。ギリシャは両多いので要注意だ。全部で30€くらいかな。アテネより安価である。地中海をながめ海鮮に舌鼓、ベネチア時代の街並みが残る南欧の穏やかな昼下がり、ほんの一時間ほどだけど、たっぷりとその情緒を体得した感じだ。

<タコのグリル>

次は、エピダヴロス遺跡である。ナブフリオからバスで2時間ほど、16時ころに到着。17時に閉館であるので正味一時間であり、入場料はここも冬季割引の6€。エピダヴロスは、古代ギリシャの療養施設が完備されたところで、最盛時には3,000人もの病人が療養していたという。有名なのは、古代劇場であるエピダヴロス劇場であり、いまもここで演劇やコンサートが開かれるのだそうだ。しかし、施設は、広範に散らばっており、劇場のほか、音楽堂、末期患者の療養施設、入浴移設、運動競技場もあり外科手術や麻酔による治療も行われ、エジプト神殿などの神殿も多数存在していたようだ。

まず、原形をとどめ今も使用されているエピダウロス劇場にいく。劇場の中心にはオルケストラと呼ぶ円形の舞台があり、客席が結構な傾斜で半円状に美しく広がっている。音響効果が素晴らしく、100mくらい離れ30m位高い最上段の客席でも音声が同じように聞こえるらしい。実際に、劇場の中心に立ち、客席をのぞむと古代ギリシャ悲劇がここで上演されているかと思うとその熱気は容易に想像できる。最上段まで上り椅子に座って舞台を眺めてもよく見えるし、実際、中央の舞台で普通に話す人の声が明瞭に聞こえた。古代の建築技術は計算された美しさと機能はを備えたものであると実感できた。

<エピダヴロス劇場>

エピダブロス劇場

ここにも考古資料館が併設されており、エピダウロスで出土したファサードの彫刻やレリーフが展示されており、写実性の優れたギリシャ彫刻を感じることができる。

<エピダヴロス資料館>

博物館

さらに数百メートル離れたところには、巨大な療養施設の遺構が広がっている。その横には、音楽堂のホールの遺構がある。当時、健康な身体と精神は強く関連しているとされ、音楽や演劇など芸術の鑑賞は治療の一環だったということだ。

<療養所>

療養施設

ここエピダウロスは、ギリシャ神話のアポロンの子である名医アスクレピオスが祀られている。アスクレピオスは医術の守護神であり、その蛇の巻き付いた杖は「アスクレピオスの杖」として医学の象徴となっている。彼の生誕にはカラスが黒くなったいわれがあるがそれはおいといて、アスクレピオスは蘇生術を行うことができ、人間を死なせなくしたため、冥王ハディスは死すものがおらず、秩序を乱すとしてゼウスに抗議し、ゼウスはこれを受け入れ彼を殺したという。でも、その功績を認められ、へびつかい座に昇天した神である。

<アスクレピオス神殿>

アスクレピオス神殿

その北側には、大きな治療処置室があり、ここでは医者に見放された患者がやってきて、麻酔をされて幻覚をみさせるという治療が行われたのだという。幻覚療法とでもいうものか、末期患者を安心させ穏やかにすることだったらしい。また、エジプトのイシスを祀る大きな神殿もあり、オシリスの再生を行った神として尊重されたのだろう。さらには、温浴施設もと整えてあり、運動施設や競技場もあり、心身のバランスの取れた健康のための施設が整備されて多様である。健康とはどういうものか、と古代人の認識は正しいなあと思う。しかし、場所はペロポネソス半島の山中にあり、ギリシャ各地から交通機関のない時代、はるばるとやってきたのかな、と思うとさぞ権威のある荘厳なところだったのだろうと思う。

<治療処置室など>

治療室

5時に日没であり、薄暮のなかアテネに向かって帰路につく。ペロポネソス半島の東海岸をコリントスに向け北上するが、コリントスまでずっと山道で1時間くらい、民家もほとんどなく、昔も今もほとんど変わらぬ風景だろうと思うが、当時はコリントスからエピダウロスまで何日かかったかのだろうか。

途中サービスエリアで休憩し、8時ころにアテネのシンタグマ広場で解散。広場は、クリスマスツリーやイルミネーションがきらめき、市民はわいわいと楽しそう。

<シンタグマ広場、無名戦士の墓>

シンタグマから人の流れにまかせ、ブティックが連なる繁華街をモナスティラキ広場まで15分ほどクリスマス気分を味わい散策する。モナスティラキ広場は、中心に小さなビザンチン教会があり中に入ってみた。イコンが壁一面に描かれ、ドームにはキリストが見守り、厳かな内陣であった。広場からは、テラスでカフェでにぎわい雑踏で人々が行きかう上に、アクロポリスの丘が眺望でき、ライトアップされたパルテノン神殿が白く浮かび上がっていた。美しい。2500年前もにアテネの賑わいを見つめていたのだろうな、と人ごみの中で見とれてしまう。ナブフリオでの3時ころ昼食がいに重かったので、カフェでジェラートを夕食に。テラスでのんびりアテネの夜を味わい、ホテルに戻った。

<モナスティラキ広場からパルテノン神殿>

<ジェラート>

 

 


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