My Life

わかりにくいタイプの毒親育ちです。これまでの人生の整理とこれからの新しい人生の為に。同じような親をもつ誰かの為に。

運動体の犠牲になった家族②

2017-07-05 | 青い芝の会の犠牲になった家族

善意による否定が重い

カルト的な親に対する誰かの言葉である

カルト的な親のもとで育つ子はありのままの気持ち、感情を当たり前に否定されて育つ。

こう思うのは、こう感じるのは、正しくない、間違っている、正しいことは、優先すべき大事なことは他にある というメッセージを受けとり続け 自分自身に向けるようになる。

私も、カルト的な親のもとで育った子と同じ。

わかりにくいけど、猛烈な毒を放ち子を苦しめる親である。

-----------------------------------------------------------------------------------

2人暮らしして社会運動している重度脳性まひの夫婦の家に、母は無償で介護に通い、献身的に支援していた。

彼ら夫婦は障害児殺しや命の選択、差別に真っ向から反対し、運動している。重度脳性まひが2人暮らしすること自体が、運動であり挑戦である。障害者の家族が介護するのが普通だが、かれらは家族から縁を切って、飛び出して2人暮らしを強行しており、介護は家族は一切せず、赤の他人がすべてしている。時間かまわず、正月でもかまわず、母を電話で呼び出し、介護を無償でさせていた。母はこの運動を理解し、支援し、献身した。そして私を含む4人のきょうだい、父、祖母がこのことで多大な迷惑・犠牲を被った。母に苦言をする人がいても、聞く耳持たず、家を留守にして介護に(無償で)行き続けた。

私は、このあまりにも暴力的な、非常識な状況を、庇うしかなかったのである。子供だから。母や彼ら運動家のことを非難する人は、間違っていると思った。そして、母がしょっちゅう介護に行くことを、正しいことと思い、自分が、母に行かないで欲しいと思うことは間違っていると思っていた。

母は、「どうしてあなたが、片道50分の距離を、無償で介護にいくのか」という問いに、「誰がやってもいいのに他の人達がしないからだ」と答えていた。「家族が介護しないで、なぜ赤の他人のあなたが無償でするのか」というしごく常識的な問いにも、「その発想が悲劇を繰り返している」「歴史は語る」と言い子殺し事件のことを持ち出して、高尚なことを言って毅然と返していた。私にとってとても理不尽で受け入れにくい、高尚の顔をした暴論だったので、苦痛すぎてつぶさには憶えていない。「迷惑な運動家だ」という普通の声に「迷惑じゃない。障害者が生きて行くのが迷惑なのか」と言っていた。この運動家は、街中で他人に手助けをしてもらった時、「ありがとうございます」とは言わず、他の言葉を敢えて使っていた。「ごくろうさま」とかだったと思う。「ありがとうございます」というのは「生きていてすみません。迷惑おかけします。手伝って頂いてありがたい」という卑屈な考えがあるという考えである。かれらは、「常識」に挑戦した運動家なのである。母は、自分のことを「支援者」とさえも言わず、「仲間」と言った。

私は、これらのことに対して、激しく歯ぎしりを覚える。彼らの言うことも、理解できない訳じゃない。障害者には死ねというのか 生きるために手伝ってもらって(当たり前のことに)礼を言えという「常識」は、障害者を排除している という考えである。私はこれを理解する。でも、強烈に歯ぎしりを覚える。これは、私や家族が、かれらの運動によって大きな犠牲を強いられたからである。

乱暴すぎるんだよ
すごく乱暴 その運動の仕方。

彼らは、運動のために、母やその他支援者を利用した。(彼らも「支援者」とは思っていない 「仲間」と呼んでいる そういうのにも、歯ぎしりを覚える 仲間じゃないだろ 支援者だろう 母はあんたらに無償で献身した 金も時間もエネルギーも使い 家族を犠牲にして じゃああんたらは母に何をしてやった この問いにも母は毅然と反論する 物理的にはなにもしてもらってなくても心が満たされる 云々 彼らを仲間と思ってるって 母の姉たちは母を「あんばかが」と言っていた)

彼ら運動体は、母やその他支援者の幸福や平穏無事な暮らしには一切関心を持っていない。支援者たちには無関心なのに、支援者たちいやそれ以外のすべての人達に慈悲深くあれ 高尚な精神をもて 知性をもて と訴える。運動体に利用され搾取されているのに、仲間 と言って支え続ける母。彼らは、母の幸福な生活になんの関心も持っていないのに。これは、世界のいたるところ(カルト、企業、運動体、流行、政治勢力、その他勢力)で見られる典型的な現象の1つである。彼ら前衛的な運動体も、御多分に漏れず典型的な暴力性を秘めているのである。その理不尽な暴力性は典型的というよりむしろ群を抜いて激しいと感じる。

私は子供の頃、脳性まひのあの声で電話がかかってくるのを何度も取り次いだ。母への介護の要請だ。母は、激務の職業で、それに付随するたくさんの仕事や活動があって、子供は4人いて、夫は家事をしない。都会からど田舎に入り婿で来た父は、その生活で不適合が多々あった。私の祖母(母の母)と父は家庭内で不和だった。そんな状況の家庭に、頻繁に介護の要請の電話をしてきた。子供が4人いると知っていて、その子供が電話に出て、「○○ちゃん」と親しみを込めて言い「お母さんに代わって」と言って、どんなつもりで介護の要請をしていたのだろう。

私はこのことに、激しく歯ぎしりを覚える。

一体、この日本のどこに、全て無償で、2人暮らしを強行している重度脳性まひの介護をしに行く余裕のある人がいるというのか。ガソリン代だって自腹、食事作り・介助のついでに食べたパン1個、そうめん一杯でも代金を要求され、納得して支援し続ける人間が、母のような人以外、どこにいるというのだ。排泄、排せつ物の処理、風呂入れ、掃除、全ての家事をやるんだ。sex介助だって頼まれてやっていた。脳性まひ妻は、脳性まひ夫に不満が募り離婚を考えていた。結婚して一緒に暮らして離婚するのはふつうのこと でも2人暮らしを強行した脳性まひ夫婦の妻が離婚したいと言い出すと いい加減にしろ と思ってしまう
お前どんだけ他人(特にうちの家族)に迷惑かけてきたんだよ って思ってしまう 母は一貫して「迷惑」じゃないって言う。 でも私たちには迷惑なんだ。 

迷惑じゃない と主張し続ける母は、猛毒を放つ親であったと今思う。鋼鉄のように一点張りのその態度。身近な人を傷つけることへのためらいのなさ。躊躇なさ
これは、カルトの親と共通するものである。子供や家族のありのままの気持ちは、とるに足らないもの 間違ったもの というメッセージを常に発信し続けている。この硬直性は、今でも変わらない。
 
無茶な要求をするのはやめてくれ。人の弱さを認めない運動体 人の弱さも自分の弱さも頑なに認めない母親 そして人の弱さも自分の弱さも頑なに認めようとしない子供が育つ 
母は、彼らの無茶な要求を受け止め、答え、そして私たち家族にも無茶な要求をしたのである。

似たような親をもつ、マイナスからスタートする運命を背負った仲間に見て欲しいと思い、書いたしだいである。

私は、自分を支配し苦しめてきた罪悪感 高尚な顔をした否定 を手放して 自由に幸福を追い求めようと思っている。

 

 



コメントを投稿