近現代の作家はあまたあれど、物語作者としての才能が豊かであったのは、三島由紀夫と太宰治ではないかと思います。
不幸なことに、三島由紀夫は大の太宰嫌いで、ファンも三島が好きなら太宰が嫌い、太宰が好きなら三島が嫌い、という傾向があるように思います。
太宰治の自己憐憫的な甘ったれた点は鼻につきますが、気力体力充実していた壮年期には、見るべき作品がたくさんあります。
一つ、太宰治の特徴として面白いと思うのは、少女もしくは人妻の告白スタイルの短編小説が見られることです。
「女生徒」とか、「待つ」とか。
あまりにも短く、あまり取り上げられることのない「待つ」について感じたところを述べたいと思います。
「待つ」は、毎日家で母親と針仕事をして過ごしている20歳の娘が、太平洋戦争の開戦とともに、家でじっとしていることに罪悪感を覚え、何かしなくては、という強迫観念に駆られ、夕方の買い物帰り、毎日毎日駅前のベンチに座って、何者かを待つ、というお話です。
彼女は人間嫌いで、知らない人とあいさつを交わすことさえ恐怖を感じるというタイプですが、誰かは知らぬ誰かを待たねばならぬ、と決意するのです。
もちろん、そんなことをしたって、誰かが現れるはずもありません。
しかし娘は、きっと、誰かが現れて、自分に微笑みかけるはずだと、自分に言い聞かせているのです。
書かれたのは戦争中。
日本国中が戦争完遂に血眼になっている時、駅前のベンチで来るはずのない誰かを待つというのは、どこか黙示的な感じがします。
何人かの文芸評論家は、救い、あるいは神のようなものを待っているのではないか、と読み解いていました。
また、戦後生まれの某先生は、平和を待っているのだ、と熱く語っていました。
なんでまたそんな分かりやすいものを設定しようとするのでしょうねぇ。
私の読後感では、何も待っていやしません。
くだらぬ暇つぶしを、格好つけて、待っている、なんて言ってみただけでしょう。
太宰治の作品には、そういう肩すかしのようなところが見受けられます。
でもそれを言っちゃあ、お終いになってしまうので、救いだか神だか平和だかという抽象的で意味ありげな概念を持ち出したのでしょう。
二十歳の娘が分けも分からず駅前で待つといったら、自身の心中のことに他なりません。
多分、年齢に伴うメランコリーや、戦争中という時代に伴う焦燥感、そわそわする気持ち、いてもたってもいられないような気持ちが静まるのを待っていたのでしょう。
そういう意味では、優れた、たった独りの心理劇と読むことができ、私にはそういう読み方が一番しっくりきます。
それにしても、角川文庫の「女生徒」に所収された短編、どれもこれも女が告白するスタイルで、太宰治は女か、という錯覚に陥ります。
女好きだったことは間違いないようですが。
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