何ともやりきれない事件のニュースです。
東大阪市の小学5年生の男児が小学校の統廃合に抗議して列車に飛び込み自殺しました。
大阪府大東市のJR片町線野崎駅で14日午後4時25分ごろ、同志社前発宝塚行き快速電車に、大東市に住む小学5年生の男児(11)がはねられ死亡した。ホームから飛び込んだとみられ、四條畷署は自殺とみている。男児は最近、自身が通う小学校の統廃合について悩んでいたとみられ、現場近くに「どうか一つのちいさな命とひきかえに、とうはいごうを中止してください」などと抗議が記された“遺書”のメモが残されていた(中略)。
幼い子供のことですが、この星に生きている限り自分の思い通りに成らないことの方が、成ることよりも圧倒的に多いです。
特に子供の心は純粋で自由でも、逆に与えられる不自由は成人と比べて大きなものです。
小学校を選ぶのだって自分で選べないし、行かないことの選択など出来ようはずがありません。
常に家庭や学校、社会といった大人達の言いなりになって生活をしなければなりません。
それだけに強制するということが、子ぢもたちの重荷にならないように気を配らねばならないと思います。
実は子供のころから徐々に固定観念という条件付けを私たちは受けて、正しいものの枠を心に作っているのです。
この事件では、親の気持ちも察するものがありますが、子供の親は凛として気丈でした。
統廃合による小学校の閉校式というのが行われる予定が東大阪市は中止としましたが、自殺した児童の母親は中止にしないでと訴えています。
この日朝、小学校の校長が男児の両親と面会。両親は「気持ちを察してあげられなかったことが悔やまれる」と話す一方で、「(閉校式を)中止にはしてほしくない。自分が死ぬことで事態を変えていこうとするのは正しくない」との発言があったという。男児の祖父母も「死をもって訴えないで」と語った。
一種の大人の焼身自殺のような、死を以ての抗議・訴えですが、その善悪を親は良く判っています。
正直なところ、小学5年生の男児にしてみればたったの1年の我慢で中学校に行くので、何故そこまで思い詰めるのか?
と思ってしまいますが、同じ大阪で体罰を訴えて自殺したことでマスコミが騒ぎ、体罰に厳しい変化が見えたことで、自殺という話題で統廃合を変えさせようとの思いが湧いたのかもしれません。
本当に意味の無き死に思えてやるせない思いがします。
他人の私がこの事件についてこれ以上言うことは避けますが、自由な心についての一般論として少し書いてみます。
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思い通りにならない現実は力ずくで変えることはできません。
自分の心の中の想いが現実を作っているので、自分の心のあり方を変えないとならないのです。
私の経験として悩みや不安が湧いてとても心配な心の状態、悲愴感で心が一杯になった時は、私はじっと自分の心と周りに流れているエネルギーを観るということを何日も何日も不断に続けます。
自分の不安や怒りは実のところ本当の自分ではなくて、心の中のマインドによる思考の為している技なので、自分の中に浸りこまないように意識するのです。
本当の自由とは魂の自由です。
悲しみ、不満、怒りといった御法度の心に制御された心は今を生きられず、真の自由はありません。
心配事などを考えているとどうしても意識は過去と未来に行ってしまいます。
過去には後悔があり、未来には不安があります。
思考をしている自分が本当の自分と思ってしまうと、この不安から逃れることができなくなってしまいます。
これが思考に嵌まった状態です。
精神疾患などは不安と心配心から無の心の状態をまったく作れないで、心はマインドに占領された状態で起こるようです。
小さなお子さんは思考をしていないで無邪気である時間が多いため、親や学校から束縛されていても自殺することも稀なのですが、心が一つのことに集中して思考に嵌まってしまうと、本当の自分を乗っ取られてしまいます。
ですから常に考えていない瞬間を思考の中に作り出すという作業の継続が大切になるのです。
そして「今を生きる」ことは思考している自分から切り離した状態、マインドから離れた状態に在ることを意味します。
この状態を作ることは思考と思考の間のスペースを作ることとなります。
そういう時間を意識的に作っておくことが大切です。
ちょっと安易なやり方で、上級の瞑想法とは言えないかもしれませんが、昨年12月に、私が最近している全体を観る瞑想法を以前記事にしましたのでリンクしておきます。
自分の中に入り過ぎると自分しか見ません。
自分の中に入り過ぎると自分と他を別けてしまいます。
本当の自分は全体意識です。
私から外を見ている私ではなくて、全体から私と私の流れを見ている意識が本当の私です。
個としての自分は一つの音符でも、一つの音符では全体は完成されません。
高い音、低い音、さまざまな音が交わってハーモニーができ、
音楽は完成します。
音楽に例えれば作曲家、指揮者、それが本当の私です。
人生も同じです。
自己を確立することは社会全体と自分を繋げること、
全体意識から自分を観れる存在となること。
光のネットワークの一員となって流れなければなりません。
考えない無の瞬間に、光のネットワークと繋がることができます。
それが共同創造をより豊かにしていきます。
他と共に生きている自分、
他と共に行かされている自分、
他と共に助け合っている自分、
そんな自分を、様々な瞑想は教えてくれるものです。
;*;?♪☆。,♪★*;;?♪☆。*?。♪★*;?☆♪★*
小さなお子さんがいる方は是非、お子さんの目を見詰めて会話をする習慣をもってください。
お子さんに瞑想を勧めることは難しいですから。
また、自分も一種の瞑想の世界にいることができるのです。
「自分の心を観る」だけでなくて「物を見詰める」ということは考えない瞬間を作ることにもなっていて、一種の瞑想状態なのです。
その参考記事です。
目と目を見詰め合って
アチチ!が、無を作る
思考空間に種をまく
思うところがあったら Clickしてね
初めてご訪問の方は「真実の扉」ホームページにも是非お立ち寄りくださいませ
東大阪市の小学5年生の男児が小学校の統廃合に抗議して列車に飛び込み自殺しました。
大阪府大東市のJR片町線野崎駅で14日午後4時25分ごろ、同志社前発宝塚行き快速電車に、大東市に住む小学5年生の男児(11)がはねられ死亡した。ホームから飛び込んだとみられ、四條畷署は自殺とみている。男児は最近、自身が通う小学校の統廃合について悩んでいたとみられ、現場近くに「どうか一つのちいさな命とひきかえに、とうはいごうを中止してください」などと抗議が記された“遺書”のメモが残されていた(中略)。
幼い子供のことですが、この星に生きている限り自分の思い通りに成らないことの方が、成ることよりも圧倒的に多いです。
特に子供の心は純粋で自由でも、逆に与えられる不自由は成人と比べて大きなものです。
小学校を選ぶのだって自分で選べないし、行かないことの選択など出来ようはずがありません。
常に家庭や学校、社会といった大人達の言いなりになって生活をしなければなりません。
それだけに強制するということが、子ぢもたちの重荷にならないように気を配らねばならないと思います。
実は子供のころから徐々に固定観念という条件付けを私たちは受けて、正しいものの枠を心に作っているのです。
この事件では、親の気持ちも察するものがありますが、子供の親は凛として気丈でした。
統廃合による小学校の閉校式というのが行われる予定が東大阪市は中止としましたが、自殺した児童の母親は中止にしないでと訴えています。
この日朝、小学校の校長が男児の両親と面会。両親は「気持ちを察してあげられなかったことが悔やまれる」と話す一方で、「(閉校式を)中止にはしてほしくない。自分が死ぬことで事態を変えていこうとするのは正しくない」との発言があったという。男児の祖父母も「死をもって訴えないで」と語った。
一種の大人の焼身自殺のような、死を以ての抗議・訴えですが、その善悪を親は良く判っています。
正直なところ、小学5年生の男児にしてみればたったの1年の我慢で中学校に行くので、何故そこまで思い詰めるのか?
と思ってしまいますが、同じ大阪で体罰を訴えて自殺したことでマスコミが騒ぎ、体罰に厳しい変化が見えたことで、自殺という話題で統廃合を変えさせようとの思いが湧いたのかもしれません。
本当に意味の無き死に思えてやるせない思いがします。
他人の私がこの事件についてこれ以上言うことは避けますが、自由な心についての一般論として少し書いてみます。
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思い通りにならない現実は力ずくで変えることはできません。
自分の心の中の想いが現実を作っているので、自分の心のあり方を変えないとならないのです。
私の経験として悩みや不安が湧いてとても心配な心の状態、悲愴感で心が一杯になった時は、私はじっと自分の心と周りに流れているエネルギーを観るということを何日も何日も不断に続けます。
自分の不安や怒りは実のところ本当の自分ではなくて、心の中のマインドによる思考の為している技なので、自分の中に浸りこまないように意識するのです。
本当の自由とは魂の自由です。
悲しみ、不満、怒りといった御法度の心に制御された心は今を生きられず、真の自由はありません。
心配事などを考えているとどうしても意識は過去と未来に行ってしまいます。
過去には後悔があり、未来には不安があります。
思考をしている自分が本当の自分と思ってしまうと、この不安から逃れることができなくなってしまいます。
これが思考に嵌まった状態です。
精神疾患などは不安と心配心から無の心の状態をまったく作れないで、心はマインドに占領された状態で起こるようです。
小さなお子さんは思考をしていないで無邪気である時間が多いため、親や学校から束縛されていても自殺することも稀なのですが、心が一つのことに集中して思考に嵌まってしまうと、本当の自分を乗っ取られてしまいます。
ですから常に考えていない瞬間を思考の中に作り出すという作業の継続が大切になるのです。
そして「今を生きる」ことは思考している自分から切り離した状態、マインドから離れた状態に在ることを意味します。
この状態を作ることは思考と思考の間のスペースを作ることとなります。
そういう時間を意識的に作っておくことが大切です。
ちょっと安易なやり方で、上級の瞑想法とは言えないかもしれませんが、昨年12月に、私が最近している全体を観る瞑想法を以前記事にしましたのでリンクしておきます。
自分の中に入り過ぎると自分しか見ません。
自分の中に入り過ぎると自分と他を別けてしまいます。
本当の自分は全体意識です。
私から外を見ている私ではなくて、全体から私と私の流れを見ている意識が本当の私です。
個としての自分は一つの音符でも、一つの音符では全体は完成されません。
高い音、低い音、さまざまな音が交わってハーモニーができ、
音楽は完成します。
音楽に例えれば作曲家、指揮者、それが本当の私です。
人生も同じです。
自己を確立することは社会全体と自分を繋げること、
全体意識から自分を観れる存在となること。
光のネットワークの一員となって流れなければなりません。
考えない無の瞬間に、光のネットワークと繋がることができます。
それが共同創造をより豊かにしていきます。
他と共に生きている自分、
他と共に行かされている自分、
他と共に助け合っている自分、
そんな自分を、様々な瞑想は教えてくれるものです。
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小さなお子さんがいる方は是非、お子さんの目を見詰めて会話をする習慣をもってください。
お子さんに瞑想を勧めることは難しいですから。
また、自分も一種の瞑想の世界にいることができるのです。
「自分の心を観る」だけでなくて「物を見詰める」ということは考えない瞬間を作ることにもなっていて、一種の瞑想状態なのです。
その参考記事です。
目と目を見詰め合って
アチチ!が、無を作る
思考空間に種をまく
思うところがあったら Clickしてね
初めてご訪問の方は「真実の扉」ホームページにも是非お立ち寄りくださいませ
我を折りましての、この様な自己分析は今後本当に必要不可欠...とつくづく思いました。
有難う御座います。
ともかく意識するということを続けている限り急速な変化もやってくることを体験しています。
昨日きました「宇宙の理」にもこの意識することの大切さが書かれていました。
自分を変えるのは「氣づき」なのだと思います。
有難うございました。
この記事に関する質問でなくて申し訳ございませんのですが
今月(3月号)の月刊「宇宙の理」の扉さんの記事で
P46に
私という組織、家庭という組織、国という組織・・
とあるのですが
「私という組織」ってどんな組織??
わかんないや(汗)
となってしまいました。
もし教えてもらっていいものなら教えてください。
感謝
大変率直な疑問を有難うございました。
こういうこと気軽に聞いていただけると嬉しいです。
人間はオギャーと生まれてから様々な善悪の条件付けをされています。
人間が社会の中で人に対して条件を作っているのと同時に、私たちは自分の中にも良い悪いという条件を作ります。
その元になっているのが、全体意識や魂といった純粋なではない、思考とかマインドとか、あるいは霊的な憑依現象とかが自分の中で絡みあって固定観念は出来ています。過去の経験としての記憶もその一つです。
それを含めて「組織」と言いました。
分かりにくくて済みませんでした。