すべてが行き詰まり、婦人にたすけを求めたとき、このままではだめなことがわかっていました。
わたしもそう思いましたし、彼もちょっとわかっていた時期がありました。
それまで生きていて、うまくいかなかったのですから、同じ生き方をしたのでは、同じことです。
なにかを変えなければならないことは、わかっていました。
この世に生きて、この世に縛られない生き方。
自分のたましいを見つけ、それにうそをつかない生き方。
きっと、そんな生き方があったはずです。
そんなことを彼と話していました。
そこで、彼が言ったのは、こんな言葉でした。
「でも、やっぱり、もう少し(この世にいて)やりたいことがあります。未練があります。」
それを聞いて、もっともだと思いました。
彼は残念ながら、結婚もしていませんでしたので、心のこりがあっても不思議ではありません。
私もうなずいていました。
それでも、まだいつかチャンスがくると思っていました…
彼が救急車で運ばれ、意識がもどらず、息を引き取ったと聞き、残念に思いましたが、そのとき後悔はしてませんでした。
できることはした。
そう思っていました。
葬式はなく、火葬だけの簡単なものでしたが、婦人と私は火葬場に同席させていただきました。
生前彼が、あんなにも非常識な兄、姉と非難していたお姉さんとも、はじめて話をしました。
とても、普通のかたで、弟がとても世話になったと、お礼を言ってくださいました。
これらのことを今、このようになぜ思い出しているのか…
なぜこのことを今、書いているのか…
私は当然、社会的常識に照らせば、罪はありません。
しかし、私がこれから、「神は存在する」と宣言するなら、罪があります。
最後のどんな瞬間でも、あきらめてはいけなかった。
私はそのとき、神のお心を探ろうとはしなかった。
神のお心を思わず、自分の思い込みで簡単にあきらめてしまった。
彼がなにを言おうと、誰もがもうだめだと言っても、関係なかった。
神には、絶対だめという言葉はないのだと思うからです。
私はあのとき、神のお心を考えようともしなかった。
神は存在すると宣言するのであれば、本人の言葉ではなく、神のお心を優先しなければならなかった。
宣言するということは、そういうことなのだと思います。
私は霊感もありませんし、直接神の声を聞けるわけでもありません。
ですが、これくらいわかります。神のお心に制限などないことを…
このように、平凡で、勇気のない私でさえ、これくらいわかります。
ですから、(私みたいな、霊的には凡人であっても、これぐらいの神の心がわかるのであれば)神は存在します。
これがわたしの思う、神の存在証明です。