自衛隊のレンジャー部隊にも所属していたことが、彼のプライドにあったのはまちがいありません。
私にはそう見えました。
頑強(がんきょう)で鍛えた肉体と精神力で、どんなことも乗り越えられるという自信もあったと思います。
兄妹(きょうだい)とも仲違いしていましたが、知人の婦人には最後に、助けをもとめました。
でも、ちょっとした行き違いから、その助けも、自ら拒否することになりました。
私も婦人も、あまりの常識はずれの行動に少し、腹を立てていました。
食事も満足にとってなかったと思います。
それでも、たすけを求めようとはしませんでした。
彼のプライドが、それを拒否していたのだと思います。
人は窮地に立ったとき、絶体絶命のピンチになったとき、それでも、不思議に力が、わいてくるときがあります。
でも、それも限度があって、最低限度の身体を維持したり、気力を回復する場所は必要なものです。
つまり、ギリギリこの身体を維持できる環境がもし、ないのであればそれは誰かにたよらなければなりません。
生きるということは、どこか、ほんとうはよくわからないのですが、不思議にわいてくる心の力と。
最低限度の身体を守っていくための適度なたすけ(援助)が必要なのだと思います。
自らの深いところからわいてくる心の力と、どこかわからないけれど深いところで繋(つな)がっている周囲の援助。
人が生きるということは、この二つのどちらが欠けても、成り立たないものなのだと思うのです。
このことは、次の言葉に置き換えることができます。
生きるということを発見する。
どんな人でも、(ここでは)役に立つことがある。
もう一度、言います。
こんなにも生きるということを、シンプル言い表している言葉を私は知りません。
残念ながら、K君はプライドが邪魔して、ただ一言、「助けてほしい」という言葉、そして、(深いところでつながっている)周囲の援助を求めることができませんでした。
では、私自身に罪はなかったのかというと、そうでもありません。
私自身、「ここまでしたのに、その好意を拒否されては、もう打つ手がない。あとは彼自身が心を改めるしかもう手段がない。あとは彼自身がどうするのかは、彼自身の問題だ。」
そう決めつけていました。