上海、東京、ニューヨーク。
3 ヵ所へ散っていった3人家族、壮絶な10年間の取材を記録した
ドキュメントを見ました。
見られた方も多かったのではないでしょうか。。
「泣きながら生きて」(11月3日放送)
1989年・・・
ある中国人男性・丁 尚彪(てい しょうひょう)さんが上海から日本へ渡ってきました。
丁さんは文化大革命の嵐の中で育ち
学びたくても学ぶことのできない時代を生きてきた方・・・
上海の街角で、とある日本語学校のパンフレットを目にした丁さんは
入学金と半年分の授業料に必要な42万円ものお金を知り合いから借金し
35歳で日本へ渡ってきました。
中国で42万円という金額は、夫婦二人が15年間働き続けなくては得ることのできないほどの
多額のお金でしたが
丁さんは日本語学校で学んだ後、日本の大学へ進学することを目指し
中国では果たすことのできない人生の再出発に賭けていました。
もちろん、それには奥さんや娘さんの協力なしでは出来ないこと('-')(,_,)
丁さんが通うことになった日本語学校は
北海道の阿寒町にある過疎化が進んでいる小さな町でした。
働きながら借金を返して勉強をしていくつもりの丁さんにとって
借金を返すどころか、仕事すらないこの町で生活をしていくことは難しく
この町を脱出し東京へやって来たのです。
阿寒町を脱出したその時点で、ビザの更新を認められず・・・
丁さんは、やむなく不法滞在者の身となってしまうわけなのですが
そこで中国に帰るわけにもいかず、ただひたすら家族の為に
一日中働き、そのお金をすべて家族のもとへ送っていたのです。
娘さんのアメリカへ留学したいという夢をも叶える為にも・・・
丁さんは、15年もの間家族と離ればなれで暮らしていました。
独学で日本語を学び、資格を取れば失業する事もないだろうと
たくさんの資格も取りながら
ただひたすら家族を想い、一生懸命に働きました。
そう、それは守るべき大切な家族の為に。。
私は、丁さんの姿を見ていて涙が止まらなくなりました。
丁さんを心から支えている奥さんの姿を見ていて泣きました。
丁さんは言いました。
・親はわが子を守り、最後まで育てる義務がある。
・日本という国は、みんなが一生懸命に努力をしている素晴らしい国だ。
・自分を受け入れてくれた日本という国には、とても感謝をしている。
・人生というものは、もっと弱いものだと思っていた。
しかし捨てたもんじゃない。一生懸命生きればなんとかなるものだ。
中国へ帰る丁さんが飛行機の中で涙を流し、そっと胸に手を合わせた。
その気持ちが痛いほど伝わってきて
またまた涙が止まらなくなってしまいました。
家族の絆の素晴らしさ。
信じ合う気持ちと気持ち。
人と人の繋がりと生きていく事への意味。
丁さん一家の姿を通して、たくさんの思いを感じながら
考えさせられる事も多かったけれど
素晴らしい番組&家族に出会えて、本当に良かったなぁ~と思いました(^-^)
(画像の空は、2006年8月7日に撮影した夕暮れ時です。。)