とみしゅう日記

自分でできること

 長崎県佐世保市の公立小学校で、六年生の女児が同級生の女児に首を切りつけられて死亡する、という事件があった。
 子どもが殺人を犯す、という状況に少なからぬショックを受けたが、「子ども」「小学校」というキーワードを外して考えてみた時、これは決して珍しくない事件であると気づいた。
 たとえば、こう言い換えたらどうだろうか。
「東京都新宿区のオフィスビルで、30歳の男性が職場の同僚に首を切りつけられて亡くなった」
 新聞には載るだろうけれども、一面を飾るかどうかは怪しい。
 子どもは単純だ、子どもは理性的ではない、子どもは判断力に乏しい。そういう思い込みが自分の中にあることは間違いない。
 自分が小学6年生の時は、どうだったろうか。ケイタイもインターネットもなかったけれど、パソコンはぼつぼつ普及していた。同級生で好きな子がいた。卒業式の日に手紙をもらった。クラスには派閥(グループ)があったかな? よく覚えていない。
 しょっちゅう教師に抵抗するやつがいた。スポーツが得意で、動物を飼うのが好きなやつだった。仲は良くなかったけど、大嫌いというわけでもなかった。
 僕はスポーツが苦手だった。でも勉強はけっこうできた。仲の良い女友達が多かった。偏食で、給食の時によく残されていたっけな。
 バカだったかもしれないけれど、バカなりの判断力があり、バカなりの人間関係があり、バカなりに傷つき、バカなりに楽しんだ。スケールは違うかもしれないけれど、当時の僕も様々な人間関係の中で生きていたのだと思う。
 誰かを殺したいほど恨んだことはなかったけれど、その逆がなかったかどうかはわからない。ひょっとしたら、僕の後ろでカッターを握り締めていたやつがいたかもしれない。
 人が生きているということは、奇跡の連続に過ぎないと言った人がいた。だからこそ人の命は尊いものなのだ、とも。
 死後の世界が本当にあるものなのかどうなのか、僕には判らない。信仰する宗教によっても、考え方は様々あるのだろう。何を信じるかは人それぞれだけれども、どんな立場であれ“現世”の命を粗末にしてはならないと僕は思う。自分の命はもちろん、他人の命も、だ。
 戦争が続く中東地帯で、日本人ジャーナリストが殺された。日本人以外を考えれば、もっともっと多くの人々が犠牲になっている。僕は幸いにも、「明日も生きていられるのか?」などと悩まずに済む生活を過ごしている。
 平和な国・日本の小学生だから殺人を犯さない、わけはない。彼らには彼らの悩みがあり、怒りがあり、衝動がある。
 僕は“幸いにも”殺人をせずに、そこまで激しく人を憎まずに、ここまで過ごしてきた。なぜだろう? なぜあの少女は同級生を殺害し、なぜ僕はそうしなかったのか? 単なる相性の問題なのか。遺伝子の問題なのか。ホルモンの問題なのか。家庭環境の問題なのか。
 一般化なんかできそうにない。人と人とが容易に判り合えないという事実は、様々な実例が証明済みだ。でも、親しい友人、恋人、家族となら、意思の疎通がある程度できるはず。
 広大な荒野を瞬時に緑地にすることはできない。でも、我が家の小さな庭になら種を蒔くことはできる。色々と考え、実行できることが見つかったら、まずは自分でやってみよう。
 今の自分にできること。できるだけ笑顔で暮らす。自分が言われて嫌なことは、相手にも言わない。相手の考えを共有できるように、できるだけ努力する。


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